横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

ゴジラも木の上で夢を見たのか(前編)

 ゴジラは、はたして何から生まれたのか、という妄想(前編)です。

 

 

ゴジラはご存知かと思いますが

 ここで言うゴジラは、昭和の時代にラドンなどと共に暴れまわった、怪獣王ゴジラのことです。

見たことがないと言う人は少ないかと思いますので、ネットで見つけた、かなり良く出来ていると思う骨格フィギュアの画像を載せます。

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画像引用元:factory : ゴジラ 骨格

 

一般的には、ティラノサウルスのような恐竜が、放射能の影響で変異したと考えられています。

 

ゴジラは恐竜か、それともワニか

 本当に恐竜でしょうか。

上の画像を見てもらえば分かるように、ゴジラ2本足で立っていますが直立しておらず、どちらかと言えば、がに股です。
なんなら、人間ならば太ももがプルプルしそうな、もう見事なまでのがに股です。

恐竜は、直立歩行をしていたことが、分かっており、ゴジラは恐竜ではあり得ません。

では、ワニでしょうか。

もう一度上の画像を見て下さい。
チョット見にくいですが、頭部の眼窩後方に穴が1つしかない、または空いてないよに見えます

ワニの場合、頭部の眼窩後方には、2つの穴があります。
従って、ワニでもありません。

ほかにも、色々な突っ込みどころ特徴がありますが、上記2点からも、恐竜やワニでないことは明らかです。

 

なにから変異したのか

 では、ゴジラは何から変異したのでしょうか。

下記記事で、恐竜の進化について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

明らかに、ゴジラは直立2足歩行をしていないが、ワニではなく、翼竜でももちろん無いので、この記事の中で検討したものの中には、ゴジラになった可能性のあるものはいないことになります。

ちなみに、同記事の中で検討した生物は、頭部の眼窩後方に、2つの穴をもち、双弓類と呼ばれています。
また、頭部の眼窩後方に、1つの穴(無い場合もある)を持つ生物を、単弓類と呼んでいます。

ゴジラも、頭部の眼窩後方に穴が1つしかない、または空いてないように見えました。

単弓類は、ペルム紀まで繁栄した生物です。
ゴジラが、大戸島で最初に目撃された時に、その足跡から、ペルム紀末に絶滅した、三葉虫が採取されています。

これらのことから、ペルム紀の単弓類の中の一種が、後にゴジラになるものの祖先でなかったかと考えられます。
この種が、現代まで生き残り、放射能の影響で、ゴジラに変異したのではないでしょうか。

ゴジラは、単弓類であり、木の上で夢を見ることは無かったのです。


後編では、この種が、どのように現代まで生き残って来たのかを、考えたいと思います。

ここまで、お付き合いいただきまして、ありがとうございます。
信じるか、信じないかは、あなた次第です。


 ではでは

ラドンも木の上で夢を見たのか

 ラドンは、はたして何から生まれたのか、という妄想です。

 

 

ラドンを知っていますか

 ここで言うラドンは、昭和の時代にゴジラと共に暴れまわった、空の大怪獣ラドンのことです。

見たことのない人もいるかと思いますので、ネットで見つけた、かなり良く出来ていると思うフィギュアの画像を載せます。 

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    画像引用元:怪獣総進撃中! | 路地裏の散歩者

 

一般的には、プテラノドンのような翼竜が、放射能の影響で変異したと考えられています。

 

ラドン翼竜か、それとも鳥か

 本当に翼竜でしょうか。

上の画像を見てもらえば分かるように、ラドンは2本足で直立しています。
なんなら、中に人間が入っていそうなほど、もう見事なまでの直立です。

翼竜は、直立歩行をしていないことが、分かっており、ラドン翼竜ではあり得ません。

では、鳥でしょうか。

もう一度上の画像を見て下さい。
両方の翼に、3本の指状のものが有ることが分かると思います。

鳥の場合、指の骨は3本しかなく、全てが翼の一部となっており、指状のものはありません。
従って、鳥でもありません。

ほかにも、色々な突っ込みどころ特徴がありますが、上記2点からも、翼竜や鳥でないことは明らかです。

 

なにから変異したのか

 では、ラドンは何から変異したのでしょうか。

下記記事で、恐竜の進化について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

明らかに、ラドンは直立2足歩行をしていますので、この記事の中で検討した、直立2足歩行を獲得した最初の恐竜から、鳥類までの、どこかの時点で、ラドンの祖先とも言うべき種が生まれたはずです。

先ず、羽毛は持っていないと思われるので、最初の恐竜が生まれてから、羽毛を獲得するまでの、かなり早い時期だと考えられます。

次に、何らかの膜構造を持っていること、指状のものが見られること、加えて直立2足歩行していることから、翼竜に進化したグループとは別に進化した、滑空に適応した種ではなかったかと思われます。

これらのことから、恐竜の進化の初期に現れた、現代のムササビのようなポジションの種ではなかったかと考えられます。
この種が、のちに飛行に適応していき、放射能の影響で、ラドンに変異したのではないでしょうか。

ラドンは、恐竜であり、木の上で夢を見たのです。


ここまで、お付き合いいただきまして、ありがとうございます。
信じるか、信じないかは、あなた次第です。

 

 ではでは

 

日本のプロ野球にも地区制を

 プロ野球クライマックスシリーズが、やっぱり納得いかないので、地区制はどうですかという話です。

 

早くも前半戦が終わろうとしていますが

 今年も、早くもオールスター前の、前半戦が終わろうとしています。

チームによっては、早くも、何とかして勝率5割とクライマックスシリーズへの進出を狙う、という状況に追い込まれています。
もー、毎年恒例になりつつあるこの状況、何とかなりませんかね、贔屓のあのチーム。

リーグ3位が日本一は無いでしょ

 それはそれとして、毎年何とか滑り込みを狙うことになっている、クライマックスシリーズなんですが、どう思いますあれ。

まあ、比較的最後まで期待がつなげるという、良い面があることは認めますよ。
いつもお世話になっておりますから。

にしてもですよ、リーグ3位が勝ち抜いて、日本シリーズも制したら、日本一というのはどーよ、と思うんですよね。
百数十試合戦ってきた、公式戦の扱いが軽すぎません?

地区制を導入しよう

 これを、多少なりとも解消するために、地区制を導入しませんか。

各リーグ2地区とし、各地区3チームの構成で公式戦を行い、各地区優勝チーム同士でリーグ優勝決定戦、その後日本シリーズとするのです。

各地区への振り分けは、例えば、本拠地の場所から機械的に東西に分けると
  
  パリーグ
    東地区  日本ハム楽天、ロッテ
    西地区  西武、オリックスソフトバンク
  セリーグ
    東地区  巨人、ヤクルト、DeNA
    西地区  中日、阪神、広島

となります。

公式戦日程は、現状と同じでいいかと思います。

これにより、公式戦の扱いが軽すぎるという問題も、解消出来ますし、同地区対戦という、新たな軸も生まれて、より楽しめるようになると思うのですが。


 実は、この案には、隠れた大きな利点があります。
全てのチームが、毎年Aクラスで、Bクラスになることが無いのですが、どうでしょうか。

  ではでは
 

 

纏向遺跡は邪馬台国か

 纏向遺跡邪馬台国の関係を考えてみた話です。

 

 

纏向遺跡とは

 纏向遺跡は、奈良県桜井市にある遺跡で、

  弥生時代末期から古墳時代前期にかけてのものである。
  東西約2キロ、南北約1.5キロという、当該時期では類をみない規模である。
  遺跡内に箸墓古墳があり、卑弥呼の墓の可能性がある。
  祭祀用具が多く出土。
  他地域で作られた土器が多く出土する。
  軸線と方位を揃えた3棟の掘立柱建物を代表とする、多数の建物群。

等から、邪馬台国ではないかと考えられています。

東遷した邪馬台国なのか

 邪馬台国東遷説を踏まえて、纏向遺跡邪馬台国なのか、考えてみました。

先ず前提として、東遷は、卑弥呼の死後4世紀に起こったと考えており、卑弥呼の墓が畿内に有ることは考えられませんので、箸墓古墳卑弥呼の墓ではありえないことになります。

その上で最初は、東遷した邪馬台国が、畿内に作った国の跡が、纏向遺跡だと考えました。

しかし、良く調べると、それには次のような矛盾が有ることが分かってきました。

纏向遺跡が存続した、弥生時代末期から古墳時代前期というのが、より正確には、3世紀初めから4世紀中頃までのことであり、4世紀と考えている東遷以前から存在し、東遷中に無くなったことになります。

つまり、纏向遺跡は東遷した邪馬台国ではあり得ません

無関係なのか

 しかし、纏向は、その規模、建物群、広範囲な地域からの土器、多くの祭祀道具などから、当時の畿内における、宗教的色彩の強い中心的存在だと考えられ、東遷するにあたって無視はできなかったでしょう。

それどころか、ここを押さえることが重要だと考えたと思います。

ということで、纏向遺跡は、4世紀に入り、東遷してきた邪馬台国に征服されたと考えます。

東遷してきた邪馬台国はどこに

では、4世紀中頃以降に、使用された痕跡が見られないことを、どう考えるかということですが。
他宗教の中心的存在であったところを使用することを、避けたという事ではないでしょうか。

そうは言っても、纏向周辺は、その当時の畿内において中心となる地域であったと考えられる訳で、新たな都を築くに都合のいい場所でもあるはずです。

といったことを考えながら、それらしいところは無いかと探してみたところ、ありました。
日本書紀に、東征を行った天皇として記されている神武天皇の、宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原神宮です。
纏向遺跡から南西に10キロ弱の位置です。
橿原神宮のあたりが、東遷した邪馬台国だったと思います。


 纏向遺跡から近い橿原神宮周辺が、神武天皇の宮の伝承地であった事は、決して偶然ではないと思います。


 ではでは

広開土王碑における倭と、倭の五王の事績

 邪馬台国東遷説から見て、広開土王碑における倭と、倭の五王の事績を解釈してみた話です。

 

 

東遷が完了して

 以前の記事で、いわゆる謎の4世紀に、邪馬台国が九州から畿内に東遷したと考えられると書きました。

yokositu.hatenablog.com

東遷が終わり、大陸からの脅威に対する備えが出来た時点で、政権中枢部は、次のように考えたのだと思います。

朝鮮半島北部における覇権を、奪還すべきだと。

これに、朝鮮半島北部からの亡命者の思いが深く関与していたことは、想像に難くありません。

広開土王碑における倭

 それ以降の行動についての記録が、高句麗の広開土王碑に有る、倭に関する記述になると考えます。

解釈に諸説ある部分は出来るだけ避けて、記述に沿って記します。(年号から始まる太字の部分が、広開土王碑の内容です)

391年 倭が来る
朝鮮半島北部における覇権を、奪うにしても、直接攻めては、周辺国から挟撃される恐れもあることから、先ず朝鮮半島南部に橋頭堡を築いたと考えられます。
小国家群からなる加羅に上陸し、築いたのが任那だと思います。

399年 百済は、倭と和通した
    新羅から、倭人の襲撃に対して、高句麗に救援の要請あり。
400年 高句麗5万の兵で新羅を救援し、倭を任那加羅まで追撃する。
    そのすきに、安羅軍が新羅の都を占領する。
任那を足掛りに、百済新羅を勢力範囲に収めたということでしょう。
安羅は、加羅の一国と考えられています。

404年 倭が帯方地方に侵入するも、撃退。
後背の憂いを無くした上で、満を持して朝鮮半島北部に進行するも、あえなく敗退の憂き目を見たという事でしょうか。

倭の五王の事績

 朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのか、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしたのだと思われます。

そのことを示しているのが、中国の歴史書宋書にある、倭の五王による朝貢の記事だと考えます。

先ず、ここでいう宋は、魏、西晋東晋と続いてきた王朝を継承した国となります。
この宋に朝貢することにより、魏に朝貢した卑弥呼から連なる政権ということでの、正当性を確立することが出来ます。

一人目の王の最初の朝貢は421年(413年という説も)です。

次に、朝鮮半島南部での権益を守る件に関しては、2人目の朝貢時に、自ら「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称して、正式の任命を求めたことに、端的に表れていると思います。

なお、この件に関しては、最後の王に対して、「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王と任命されたことに見られるように、一定の成果は上げましたが、最後まで百済に関しては認められなかったのは、面白いところです。


 以上は、朝鮮半島に進出を始めた391年から、王が任命を受けた478年の間の出来事になります。


  ではでは


 

 

水害対策

 水害対策の話です

 災害に合われました皆様に、お見舞い申し上げます。

 

治水対策はしているが

 毎年のように、想像を超えるような水害が発生するようになってしまいました。

それに対して、大都市部にみられる大規模な地下施設など、様々な治水対策が行われています。

が、これらに加え、さらに50年、100年に一度の水害に対応するための治水対策を、日本全土に施すことは、非現実的と言わざるを得ません。

そこで、水害発生状況から、治水対策以外の、対策を考えてみました。

水害が生じているのは

 水害の報道で良く出てくる言葉に、床下、床上があります。

これは、当たり前ですが、被害の及んだ範囲を表現するときに、1階の床を基準にその上か下かを示しているわけです。

つまり、被害は、1階でとどまることが多いという事です。

とすれば、1階での被害を減らす方法を考えれば、多くの被害を防げると期待出来そうです。

1階に水が入らないようにする方法などを、色々と考えあぐねた挙句、思いつきました。
結局のところ、1階に生活の場がなければいい訳なので、ピロティーにすればいいことに。
ビルなどで、1階部分が柱だけで、駐車場に成っているものがありますが、それがピロティーです。

一般の住居をピロティーにすれば、水害に有っても、被害は最小限に留められるという訳です。
少なくとも、生活の場が無くなることは避けられる。

ピロティーだと

 1階は駐車スペースとします。
車は、住宅と違って、一生で一度しか買わない、というものでもないので、あきらめるのを前提とします。
これは、通常の住宅でも同じことだと思います。

土砂が入り込んだり、水が引いた後に泥が残ったりしても、駐車スペースとしてフラットになっているため、小型の重機等で、比較的簡単に撤去が可能と考えられます。

最大の問題点は、コストが上昇してしまうという事でしょうか。
防災対策として、公的補助も考えていいのではないかと思います。


 以上、建て替えることが前提なので、なんだという事なんですが、長期的に考えれば、非現実的な程大規模なものが必要、と考えられる治水対策に比べ、比較的低コストで、現実的に防災力の向上を図れると思うのですが。


  ではでは

恐竜は木の上で夢を見たのか

 今回は、私の考える恐竜の進化の話です。

 

ペルム紀末にもあった絶滅

 最近ではよく知られるようになったように、恐竜は、白亜紀の末に、隕石の衝突により絶滅したと考えられています。
白亜紀の前が、映画で有名になったジュラ紀です。
ジュラ紀のさらに前が三畳紀と呼ばれ、恐竜が生まれたと考えられてます。
その理由は、三畳紀の前のペルム紀の地層から、恐竜の化石が出ていないからです。

実は、白亜紀末と同じように、ペルム紀末でも生物の絶滅が起きています
それも半端でない大絶滅が。
この時の絶滅を、史上最大の絶滅と考える研究者もいるほどです。

恐竜登場前夜

この時、勘違いしがちなのが、絶滅したのが動物だと思いがちであることです。
当然のことながら、植物も多くの種が滅んでいます
シダ植物類を主体とした森も、一旦姿を消すことになりました。

三畳紀になり、裸子植物類が取って代わり、再び森が形成されました
その樹上という空白領域に、ペルム紀末を生き延びた恐竜の先祖が進出したのだと思います。

恐竜の先祖といっても、どちらかといえばワニに近い生き物だったと考えられます。
その時、地上に残ったものが、現代のワニに連なります

恐竜登場

先ず、木の上に進出したものの一部が、現代のコウモリのような、膜を持つようになり、のちの翼竜となったと考えられます。

次に、残ったものの中から、直立2足歩行を獲得したものが現れたのだと思います。

これに関しては、何も根拠がないのですが、
 ワニのような、いわゆるガニマタより、細い枝まで行動範囲が広がる
 前足を手として、摑まることが出来る
等、樹上での利点があることや、
 鳥盤類(トリケラトプス等)、竜脚類(ディプロドクス等)、獣脚類(ティラノサウルス等)の3類全ての初期の種が、2足歩行であること。
などから、それほど荒唐無稽でもないなと考えているんですが。

つまり、最初の恐竜は、木の上で生まれたのです。

そして鳥類が残った

その後、保温を必要とする環境に適応して、羽毛を獲得したものが現れたと考えられます。
そのため、多くの恐竜には、何らかの形で羽毛またはその痕跡があったという事になります。

そして、先ず、鳥盤類が、それに続き竜脚類、最後に獣脚類が地上に戻ったのだと思います。
それぞれの骨の形状の違いは、樹上生活の期間の違いにより、適応が進んだ結果ではないでしょうか。
また、それぞれの種類において、4足歩行していた種に関しては、2足歩行から4足歩行に戻ったと考えられているようです。

最後まで樹上に残ったものが、羽毛を発達させ、飛行能力を持つに至り、鳥類になったと考えます。

という訳で、鳥類が恐竜の子孫だというのは、ある意味正しいのですが、獣脚類が地上で飛行能力を獲得して、鳥類になったというのは、間違っていると思います。


 ティラノサウルスは、空を飛ぶ夢は見なかったという事です。

 

 ではでは

音読、瞬間英作文、文脈で単語暗記、ヒアリングを、一冊でかつ低ストレスで

 今回は、不肖私めの英語学習法の話です。

 

エビングハウス忘却曲線

 やっぱり英語は単語力だよね、と色々調べているとたいてい出会うのが、エビングハウス忘却曲線だと思います。

人の脳は、最初に100%覚えると、1時間後には56%忘れ、1日後には74%、さらに1週間後には77%、1カ月後には79%と、指数曲線的に忘れるという、あれです。

そのため、1時間後、1日後、1週間後、そして1カ月後と復習を行えば、効率的に覚えられるという訳です。

忘却曲線との闘い

私も、最初にこれを知った時には、これだと思って、さっそくその日から、手持ちの単語帳でやりました。

でも、結局2週間ぐらいで挫折しました。
まあ、端的に言って、覚えられなかったんです。
それに、何というか、覚えなきゃというストレスが、毎日半端なかったんですよね。

これ、私の記憶力という問題点もあるかとは思いますが、もう一つ大きな勘違いがあると思うんですよ。
上の説明にサラッと書いてありますが、前提として、「最初に100%覚えると」なんですよね。
そうなんですよ、毎日毎日、その日新たに対象とする分を、100%覚えることが前提なんです。

それが出来れば苦労はしない訳で、次第にストレスが溜まることにもなった訳です。

低ストレスを求めて

 ならば、毎日その日新たに対象となる分を、その日のうちに100%覚えなくてもよくすることが出来れば、低ストレスで行けるかもしれない訳です。

そんなうまい話が、とも思ったんですが、色々と試行錯誤をした結果、今のところ行き着いた方法が、以下の方法です。

 1.その日新たに対象とする分は、朝に音源、意味、文法を確認する。
 2.1日分を、各々14日間連続、21日目、28日目に学習する。
 3.最初の7日は音読、残り7日、21日目、28日目は瞬間英作文をする。
 4.音読の最初から3日間は、音源に合わせて行う。
 5.いずれの場合にも、特に覚えようとはしない。

初めの方と、終盤は除いて、毎日16日分を行うことになりますが、朝昼晩と分ける形にすれば、それほど負担にはならないと思います。
私の場合、合計で毎日1時間程度です。

途中で、あまりうまくいかない日があっても、残りの日で意外とカバー出来るので、精神的にも比較的楽です。

まあ、これで100%覚えられるとは言いませんが、28日目に意外と覚えていて、いい気分になったりします。

単語帳なので

私は、今現在これを、松本茂『速読速聴・英単語Basic2400 Ver.3』Z会でやっています。
この本は、文脈主義で作られているため、単語は文脈で覚えることになります。

意識してそうした訳ではないのですが、結果として音読、瞬間英作文(なかなか瞬間とはいきませんが)、文脈で単語暗記、ヒアリングを、一冊でかつ低ストレスで、行う方法となりました。

今のところ、結構気に入っています。
ただ、単語帳を使っているので、発音と文法に関しては、分かっているという前提になってしまうのはやむを得ません。

それもあって、発音と文法を含めた、中学英語ベースの参考書を考えてみたんですけどね。 

yokositu.hatenablog.com

 

  ではでは

 

オリンピックは4年に一度

 オリンピックをこうしたらどうでしょうか、という話です。

 

 

最近のオリンピックは

 東京オリンピックも近づいてきました。
あんなに費用を掛ける必要があるのか、と思っているのですが、それ以外にも

 招致過程に疑問が多い
 商業主義が過ぎる
 ドーピング問題
 ボイコット等の政治利用

等々、すでにオリンピックそのものが制度疲労の限界にきているのではないか、と思わせる状況ではないでしょうか。

問題をどうするか

 多くの問題は、単独の都市による短期集中開催によって生じていると考えています。

そこで、4年に一度のうるう年を丸々1年、オリンピック年とするのです。
そして、開催都市の指定もなくすことにします。
オリンピック年に行われる、世界一決定トーナメントを、全てオリンピック競技とするのです。
世界中のどこで行われても、1年のいつ行われてもです。

問題はどうなるか

 まず、開催費用は、それぞれの競技団体が、現状のワールドカップなどと同様の対応をすればいいことになります。
巨大な選手村も必要なくなります。

開催都市はなくなるので、招致にまつわる問題は無くなります。
各競技の開催場所に関しては、各競技団体が決定します。

商業主義に関しても、開催場所、開催主体が分散することにより、ある程度抑えられると考えられます。
例えば、一括して巨額の放映権料を支払って、競技の内容、時間にまで口を出すようなことも出来なくなると思われます。

特定の開催都市、すなわち特定の国が無くなるわけですから、政治的等の理由でボイコットする意味がなくなります。
たとえボイコットしても、単に競技に出なくなるだけです。

その他考えられること

 冬季、夏季という概念は無くし、1年の間にすべて行います。

パラリンピックもなくし、各競技のカテゴリーとし、同時に実施します。
大体、別々にやっている今がおかしいのですから。

開催競技、参加人員の制限はなくし、とにかくオリンピック年に行われるものは、全てオリンピック競技とします。
例えば、ラグビーは、11人制が出来ることになります。

オリンピック年以外の3年は、どのようなトーナメントも予選とみなす。
とにかく、世界チャンピオンはオリンピック優勝者のみとする。
サッカーは、オリンピック年にワールドカップを行います。

IOCは、オリンピックに関する仲裁及びドーピング管理機関とすることにして、権限を縮小する。

etc.

 

あ、忘れていましたが、開会式、閉会式は当然ありません

 

 ではでは

ダークマターで歴史は繰り返すのか2

 前の話で、天才に丸投げした、ダークマターについてもう少し考えた話です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ニュートン力学相対性理論

 水星の軌道のズレが、ニュートン力学では説明できず、相対性理論により解決された結果、バルカンの存在は否定されました。

ここで、誤解してはいけないのが、ニュートン力学相対性理論によって否定された訳ではないという事です。

両者の関係は、ニュートン力学を、特殊な条件下にも適合するように拡張したのが、相対性理論という感じになります。
その条件は、ざっくり言えば、星のような大きな質量と光のような高速度です。

逆に言うと、我々の日常世界程度の質量と速度の下では、特殊な質量と速度によって生じる影響が無視できるほどになり、ニュートン力学に一致するとも言えます。

バルカンとダークマターの条件

 バルカンの場合、水星が太陽という大質量の近くを回っていることによる影響が表れた、と考えることができます。

では、ダークマターに関してはどうでしょうか。
事の発端は、アンドロメダ銀河が、あり得ない速さで回転をしていることでした。

という事は、速度が問題でしょうか。
ですが、相対性理論では、質量と速度に関しては、その影響を考慮しているわけで、問題とはならないはずです。

私が考えるダークマターにおける条件は、距離です。

距離とスケーラビリティ

 ここで問題にしている距離は、アンドロメダ銀河までの距離ではなく、約10万光年と考えられている、半径方向の距離です。

これまでの理論では、引力は、距離の2乗に反比例すると考えてきたものを、距離が非日常的なほどに大きくなると、異なった影響を生じると考えるわけです。

もちろん、アンドロメダ銀河までの約250万光年の距離も、同様に影響を生じていることになるので、銀河同士の運動にも影響を与えていることも考えられます。

どうしてそうなるのかの理論的な部分は、やはり21世紀を代表する天才にお任せするとして、さらに想像を逞しくしたいと思います。

一般に、理論はスケーラビリティがあるはずなので、非日常的な近距離になっても成り立つことが期待されます。
つまり、量子的な距離においてもです。
という事は、ひょっとして、量子と重力を統一できるという事はないですかね。


 結局、天才に投げて、さらに大風呂敷を広げるという話でした。


  ではでは

 

ダークマターで歴史は繰り返すのか

 近年、天文学、物理学でホットな話題となっている、ダークマターってどうなのよ、という話です。

バルカンという名の惑星

 19世紀に観測精度が上がり、水星が、ニュートン力学では説明のつかない軌道で回っていることが、発見されます。

そのしばらく前に、天王星の軌道のずれが、その外側の未知の惑星との相互作用によるものとの仮説から、海王星が発見されていました。

そのため、水星の場合も、未知の惑星によるものと考えられ、捜索が始まりました。

さすがに、望遠鏡の性能も上がっているので、水星と金星の間なら発見されているだろうという事で、水星と太陽の間に想定され、計算により、未知の惑星の質量、軌道などが導き出されました。

そして、発見される前から、バルカンという名前まで付けられました。

バルカンの運命

 発見されたバルカンには、耳のとがった、論理的思考を行うヒューマノイドが住んでいた、というのは冗談です。(分かる人だけ、分かってくれ。)

結局、バルカンは見つかりませんでした
そして、説明のつかない軌道で水星は回っています。

その謎を解いたのが、20世紀を代表する天才のアインシュタインでした。
彼が、颯爽と登場し、未知の惑星の存在を仮定しなくとも、相対性理論により説明できることを示したのです。

ダークマターという名の物質

 1970年代に、アンドロメダ銀河が、相対性理論では説明のつかない速度で回っていることが発見されます。

回転が速すぎて、星などの見えている物質だけでは、引っ張り切れずに、ばらばらに飛んで行ってしまうはずなのに、アンドロメダはそこにある。

そのため、これまで発見されていない未知の物質により、引っ張られているのだと考え、捜索が始まりました。

さすがに、望遠鏡の性能も上がっているので、見えるものなら発見されているだろうという事で、見えない物質と想定され、計算により、未知の物質の質量、位置などが導き出されました。

そして、発見される前から、ダークマターという名前まで付けられました。

ダークマターの運命

 発見されたダークマターには、銀河の星々を自分の好みの形に並べかえてしまう、生命体が住んでいた、というのは冗談です。(分かる人だけ、分かってくれ。)

結局、ダークマターは見つかりませんでした
そして、説明のつかない速度でアンドロメダは回っています。

その謎を解いたのが、21世紀を代表する天才科学者でした。
彼が、颯爽と登場し、未知の物質の存在を仮定しなくとも、新たな理論により説明できることを示したのです。

そしていつしか、ダークマターは、バルカンまたぁ(またかという感じで)と呼ばれるようになりました。

 


 となるといいなと、割と真面目に考えています。
なんといっても、新たな理論が出てくれば、新たな世界が見えてくる訳ですから。
それで、ひょっとしたらワープが出来るようになる、かもしれないじゃないですか。

アインシュタインが、相対性理論の最後の論文を発表したのが、1916年なんですよね。
すでに、世界の何処かに居るはずです。
いでよ、21世紀を代表する天才。


 ではでは

 

yokositu.hatenablog.com

 

ガソリンスタンド過疎対策にディーゼル車を

 今回は、ガソリンスタンド過疎対策に、ディーゼル車を活用してはどうかという話です。

 

ガソリンスタンドも無くなる

 以前、買い物難民対策について書きました。

yokositu.hatenablog.com

 ガソリンスタンドに関しても、同じような過疎問題が起きているという話を聞くようになりました。
状況的には、ほぼ買い物難民と同じ事なんですが、車が使えなくなるという事で、こちらの方が深刻かもしれません。

ガソリンは燃えやすい

 状況的に似ているので、上記の買い物難民対策と同じ考え方で行けるんじゃないかと、最初考えました。
冬になると、軽トラの荷台にタンクを積んだような車で、灯油を売りに来るじゃないですか。
あれで、回ればいいんじゃないかと。

ダメでした。
チョット調べればすぐわかることですが、ガソリンは気化し易く、燃えやすいので、売り歩くようなことは出来ないようです。
そう言えば、灯油用のポリタンクに絶対入れてはいけないと聞いたことがありました。
ちなみに、第4類危険物の第1石油類という恐ろし気なものに分類されるそうです。

灯油と軽油は、同じ分類

 危険物について調べているときに、灯油と軽油が、同じ第2石油類に分類されていることに気が付きました。

調べてみると、灯油に比べ、軽油の引火点が5度高い(45度以上)のと、軽油にのみ潤滑成分が含まれている点が異なるだけで、性質の似たものでした。

これはと思って検索してみると、案の定、軽油を配達しているところが沢山出てきました。

ディーゼル車にすれば

 という事は、軽油で走るディーゼル車であれば、買い物難民対策と同じ考え方で、当面対応出来ることになりますよね。

最近何かと評判の悪いディーゼル車ですが、このあたりが、復活の鍵かもしれませんよ。

最終的には、自動運転の電気自動車になるのかもしれませんが、それまでの繋ぎとしては、ディーゼル車こそが解答だと思うのですが。
なにしろ、次第にエンジン搭載車の数が減っていく状況になった時に、ガソリンスタンドを維持することができないのは、自明の理ですからね。


まずは、いでよディーゼルの軽自動車、でしょうか。


  ではでは

卑弥呼の墓はここだ

 今回は、邪馬台国の位置と並んで議論の的となる、女王卑弥呼の墓についての話です。

 

 邪馬台国は宇佐にあったので

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だったのではないか、邪馬台国はその宇佐にあったのではないか、という話をしました。

yokositu.hatenablog.com

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であるならば、その卑弥呼が亡くなった場合、宇佐の地に葬られた、と考えるのが普通かと思われます。

つまり、卑弥呼の墓は宇佐に有る、という事だと思います。

宇佐のどこなのか

 上記記事で書いたように、道鏡事件において、天皇後継問題にまで影響力があった、宇佐神宮に関係がある場所と考えられます、
逆に、卑弥呼の墓と関りがあったから、影響力があったと言えるかもしれません。

実は、関係どころでは無く、宇佐神宮の本殿は小高い亀山山頂にあるのですが、この亀山の山頂部分が古墳だと言われているようです。

山頂部の径百余歩に相当する部分を造成して墓としたと考えれば、「魏志倭人伝」の記述とも矛盾しません。

つまり、卑弥呼の墓は、宇佐神宮に有る、という事だと思います。

宇佐神宮卑弥呼

 現在、亀山山頂には、宇佐神宮の上宮があり、次の三神が祀られています。

 一之御殿:応神天皇 (おうじんてんのう)  725年造営
 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ)   729年造営
 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)   823年造営

応神天皇神功皇后は、日本書紀に記載がある人物です。
比売大神は、現在、宗像三女神とされていますが、その正体についてはよく分かっておらず、祀られている地域によっても違いがあるようです。

この比売大神が、卑弥呼だと考えます。
卑弥呼が亡くなってから、約500年の間に、比売大神として信仰されるようになったのだと思います。

さらに日本書紀によれば、神功皇后は、熊襲征伐の後、朝鮮半島に赴き、帰国後、九州の地で、応神天皇を生みます。
つまり、いずれも九州に関係のある人物です。

これらの事と、日本書紀の成立が720年である事、さらに3御殿の造営時期を合わせて考えると、宇佐神宮は、比売大神の信仰を基に、日本書紀の内容を合わせる形で、現在の形に成ったと思われます。

つまり、大和政権の始祖とも言うべき卑弥呼が祀られていることにより、道鏡事件で見られたような、影響力があったという事です。


 改修工事の時に石棺を見た、という話もあるようなので、中から金印でも出てくると面白いんですけどね。


  ではでは

 

邪馬台国はここに建てられた

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だった、という話をしました。

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 今回は、その中で予告した、邪馬台国の位置に関する話です。

卑弥呼共立の条件と同じ

 前出の記事のなかで、卑弥呼共立の条件として、
「争いを収めるために共立するのに、武力や政治力を基準にしても、到底納得が得られる訳がありません。
宗教的中心を背景とした人物であれば、表向き中立性もあり、賛同が得られやすかったと、考えられます。」
という話をしました。
 
これは、邪馬台国の建てられた位置にも、当てはまると思うのです。
何処に建てても、アブハチ取らずで、下手をすれば再び紛争の種になりかねないと思うんですよね。

そこで、賛同の得られやすいという事で、宗教的中心に近いところに建てたのではないでしょうか。
つまり、邪馬台国は宇佐に有ったという事になります。

魏志倭人伝の記述

 さて、建立の状況から、場所を宇佐とした訳ですが、「魏志倭人伝」の記述と整合性がなければ、単なる一人相撲になってしまうので、検討してみました。

以下に、「魏志倭人伝」に書かれた、邪馬台国までの旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、投馬国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、陸行、???里、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

ただし、投馬国と邪馬台国に至る旅程は、下記の記事で考察した、修正を採用しています。
また、「方角」「???」は、この部分に方角、数字がそれぞれ入るが、具体的に決められないという意味です。 

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 地図上で考えると

先ず、狗邪韓国は朝鮮半島南部の対馬対岸対馬国対馬一大国は壱岐と考えれば、末廬国で九州に上陸という事になります。

残りの旅程を、地図と見比べた結果、壱岐から東に海を渡り現在の宗像市付近に上陸したと考えると、うまく当てはまりそうだと気が付きました。
実際に、地図に当てはめた結果がこれです。

グーグルマップのルート検索の機能を使っているので、指定し易いランドマークを繋いだものになっています。
以下の話では、大体そのあたりかな、ぐらいで考えてください。

先ず、末廬国から不弥国までは、全て陸行で、

宗像大社(末廬国)→東南→小竹駅(伊都国)→東南→香春駅(奴国)→東→新田原駅(不弥国)

と、旅程に沿っています。

その後の、投馬国経由邪馬台国の旅程は、水行→水行→陸行(方角は不明)ですが、地図上はルート検索のため陸上となっている柳ヶ浦駅までを、周防灘の沿岸沿いを水行したと考えれば、

新田原駅(不弥国)→水行→中津駅(投馬国)→水行→柳ヶ浦駅→陸行→宇佐神宮邪馬台国

と、符合します。

距離に関しても、桁違いにずれている、という事は無いと思います。


以上、邪馬台国宇佐市で、大きな破綻は無いかなと思っているんですが。


  ではでは

道鏡事件から考える卑弥呼

 道鏡事件の気になる点について考えたら、卑弥呼に行き着いた、という話です。

 

道鏡事件とは

 先ず、道鏡事件について、極簡単に説明すると。

奈良時代、8世紀後半に、道鏡とういう僧侶が、時の孝謙上皇の病気を治したことをきっかけに、上皇の寵愛を受け、出世します。
宇佐八幡宮の神託により、天皇になりかけるが、同宮の再度の神託で阻まれた、という事件です。

道鏡事件の気になる点は

 この話の中で、最も気になる点は、なぜ、一介の僧侶が天皇になるかどうかの重大事に関して、宇佐八幡宮の神託が、重要な役割を果たしたのかという事です。

宇佐八幡宮は、現在の大分県宇佐市に有る神社です。
なぜ、遠く九州に有る神社の神託が、と思う訳です。
もっと近くに、それこそ伊勢神宮とか有るにもかかわらずにです。

実際、再度の神託のために派遣を命じられた人物が、長旅に耐えられぬからと、その弟を替わりに派遣した、といった話も残っています。

邪馬台国時代からつづく関係と考えれば

 しかしこれも、九州に有った邪馬台国が、東遷して大和政権になったと考えている立場からすると、当然とも言えるわけです。
九州に有った時代から、関わりがあったと考えれば、納得出来ます。
しかも、天皇の継承に影響するほどの関係が。

では、東遷して、畿内に政権が移った後も、強い影響力が残る関係とは、どのようなものでしょうか。
例えば、権力構造のなかで、有力な集団だったとしましょう。
九州に残ったとすれば、そんな遠くから影響力を行使できるとは、思えません。
一緒に東遷したのならば、九州までお伺いを建てる必要はありません。

つまり、単なる力関係ではないと考えられます。

卑弥呼は、宇佐の巫女的存在だった

 その関係性は、宇佐八幡宮が関係していることからも、宗教的な背景があったと考えられます。

後に、宇佐八幡宮が建立される宇佐は、弥生時代における、ある種の宗教的中心の一つだったのでしょう。
そして、卑弥呼は、宇佐の巫女的な存在だったのではないかと思います。
その卑弥呼が、邪馬台国の女王として共立された。

そのため、奈良時代宇佐八幡宮にも、その関係性が継承され、天皇の後継問題にも影響力があったのではないでしょうか。

魏志倭人伝の記述からも

 卑弥呼が、宗教的中心の巫女的存在だったのでないかという考えは、魏志倭人伝の記述からも、ある程度類推できます。

先ず、卑弥呼は、鬼道を行ったとあります。
これは、彼女が何らかの宗教的な行為をし、それを中国からの使者が、鬼道と呼んだのだと思います。

次に、倭国で長期間の争いがあり、女子を共立して王とし、収めた点。
争いを収めるために共立するのに、武力や政治力を基準にしても、到底納得が得られる訳がありません。
宗教的中心を背景とした人物であれば、表向き中立性もあり、賛同が得られやすかったと、考えられます。


 という訳で、道鏡事件から、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だった、という話に行き着きました。
実は、同時に、邪馬台国の位置についても、思うところはあるのですが、長くなりましたので、またいずれという事で。


  ではでは