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卑弥呼の墓はここだ

 今回は、邪馬台国の位置と並んで議論の的となる、女王卑弥呼の墓についての話です。

 

 邪馬台国は宇佐にあったので

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だったのではないか、邪馬台国はその宇佐にあったのではないか、という話をしました。

yokositu.hatenablog.com

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であるならば、その卑弥呼が亡くなった場合、宇佐の地に葬られた、と考えるのが普通かと思われます。

つまり、卑弥呼の墓は宇佐に有る、という事だと思います。

宇佐のどこなのか

 上記記事で書いたように、道鏡事件において、天皇後継問題にまで影響力があった、宇佐神宮に関係がある場所と考えられます、
逆に、卑弥呼の墓と関りがあったから、影響力があったと言えるかもしれません。

実は、関係どころでは無く、宇佐神宮の本殿は小高い亀山山頂にあるのですが、この亀山の山頂部分が古墳だと言われているようです。

山頂部の径百余歩に相当する部分を造成して墓としたと考えれば、「魏志倭人伝」の記述とも矛盾しません。

つまり、卑弥呼の墓は、宇佐神宮に有る、という事だと思います。

宇佐神宮卑弥呼

 現在、亀山山頂には、宇佐神宮の上宮があり、次の三神が祀られています。

 一之御殿:応神天皇 (おうじんてんのう)  725年造営
 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ)   729年造営
 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)   823年造営

応神天皇神功皇后は、日本書紀に記載がある人物です。
比売大神は、現在、宗像三女神とされていますが、その正体についてはよく分かっておらず、祀られている地域によっても違いがあるようです。

この比売大神が、卑弥呼だと考えます。
卑弥呼が亡くなってから、約500年の間に、比売大神として信仰されるようになったのだと思います。

さらに日本書紀によれば、神功皇后は、熊襲征伐の後、朝鮮半島に赴き、帰国後、九州の地で、応神天皇を生みます。
つまり、いずれも九州に関係のある人物です。

これらの事と、日本書紀の成立が720年である事、さらに3御殿の造営時期を合わせて考えると、宇佐神宮は、比売大神の信仰を基に、日本書紀の内容を合わせる形で、現在の形に成ったと思われます。

つまり、大和政権の始祖とも言うべき卑弥呼が祀られていることにより、道鏡事件で見られたような、影響力があったという事です。


 改修工事の時に石棺を見た、という話もあるようなので、中から金印でも出てくると面白いんですけどね。


  ではでは