纏向遺跡とは
弥生時代末期から古墳時代前期にかけてのものである。
東西約2キロ、南北約1.5キロという、当該時期では類をみない規模である。
遺跡内に箸墓古墳があり、卑弥呼の墓の可能性がある。
祭祀用具が多く出土。
他地域で作られた土器が多く出土する。
軸線と方位を揃えた3棟の掘立柱建物を代表とする、多数の建物群。
等から、邪馬台国ではないかと考えられています。
東遷した邪馬台国なのか
邪馬台国東遷説を踏まえて、纏向遺跡は邪馬台国なのか、考えてみました。
先ず前提として、東遷は、卑弥呼の死後4世紀に起こったと考えており、卑弥呼の墓が畿内に有ることは考えられませんので、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえないことになります。
その上で最初は、東遷した邪馬台国が、畿内に作った国の跡が、纏向遺跡だと考えました。
しかし、良く調べると、それには次のような矛盾が有ることが分かってきました。
纏向遺跡が存続した、弥生時代末期から古墳時代前期というのが、より正確には、3世紀初めから4世紀中頃までのことであり、4世紀と考えている東遷以前から存在し、東遷中に無くなったことになります。
無関係なのか
しかし、纏向は、その規模、建物群、広範囲な地域からの土器、多くの祭祀道具などから、当時の畿内における、宗教的色彩の強い中心的存在だと考えられ、東遷するにあたって無視はできなかったでしょう。
それどころか、ここを押さえることが重要だと考えたと思います。
ということで、纏向遺跡は、4世紀に入り、東遷してきた邪馬台国に征服されたと考えます。
東遷してきた邪馬台国はどこに
では、4世紀中頃以降に、使用された痕跡が見られないことを、どう考えるかということですが。
他宗教の中心的存在であったところを使用することを、避けたという事ではないでしょうか。
そうは言っても、纏向周辺は、その当時の畿内において中心となる地域であったと考えられる訳で、新たな都を築くに都合のいい場所でもあるはずです。
といったことを考えながら、それらしいところは無いかと探してみたところ、ありました。
日本書紀に、東征を行った天皇として記されている神武天皇の、宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原神宮です。
纏向遺跡から南西に10キロ弱の位置です。
橿原神宮のあたりが、東遷した邪馬台国だったと思います。
纏向遺跡から近い橿原神宮周辺が、神武天皇の宮の伝承地であった事は、決して偶然ではないと思います。
ではでは