邪馬台国の文字と貨幣について考えた話です。
なぜ無かったのか
古代日本史(特に邪馬台国ですが)が好きで、本ブログにも色々と書いているわけですが、昔から疑問に思っている事が有ります。
それは、文字と貨幣についてです。
簡単にいうと、なぜ邪馬台国では文字と貨幣が使われていなかったのかという点です。
ただ単に文字と貨幣を知らなかったという訳では無いはずです。
最初の文字
例えば文字については、あの有名な「漢委奴国王」と刻印された金印が有ります。
これは『後漢書』の記述に在る、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国から朝貢に来た使者に対して賜った印と考えられています。
つまり、西暦57年頃には、日本(奴国)には来ていたことになります。
ただし、これを当時の倭人が、文字として認識していたかどうかは、議論の在るところです。
しかし、『後漢書』にも有るように、使者が後漢まで行って賜って来たわけですから、その使者として行った人たちは、文字や、それがどうやって使われているかをみて来たはずです。
従って、当時の倭人もある程度文字というものの存在を認識していたと考えてもよさそうです。
にもかかわらず、それから二百年程経った、邪馬台国の時代になっても、文字が使われている形跡は無いのです。
貨幣についても
貨幣についても同じような事が言えます。
当然、後漢の時代には中国では貨幣が使われていた訳で、文字と同じように貨幣についても、その存在とどういったものであるのかについては、少なくとも金印の時代から知っていたはずです。
しかし、邪馬台国時代の遺跡からも中国製の貨幣が見つかっていますが、その出土状態から、墓の副葬品、祭祀用、金属製品の原料などとして用いられ、貨幣本来の流通はしていなかったと考えらえているようです。
やはり、その存在を知ってはいても、本来の使われ方はしていなかったという事になります。
なぜ使われていなかったのでしょう。
必要無かった
結論から言うと、必要無かったから使っていなかった、という事なのではないでしょうか。
前々回の記事で、邪馬台国時代のいわゆる「国」について書きました。
「国」については、我々が考える国家というようなものでは無く、農耕を背景とした権力が存在する村落共同体といった感じのものだったと考えました。
そういった社会では、文字で記録しておかなければならないほどの情報は無く、経済も物々交換程度のもので事足りていたという事なのでは無いでしょうか。
従って、文字も貨幣も、その存在を知ってはいたが、使う必要性が無かったのです。
現代の我々が必須だと思っている、文字や貨幣(お金)は、絶対的に必要なものではないのです。もっとも、文字が無いとブログが書けませんが。
ではでは