騎馬民族征服王朝説
東北アジアの騎馬民族が、朝鮮半島を経由して倭と呼ばれていた古代日本に至り、その地を征服して打ち建てたのが大和王朝であるというものです。
最近でこそあまり聞かなくなっていますが、昭和の時代には話題になりました。
調べてみると、初出は1948年で、終戦後直ぐだったようです。
終戦によって、それまでの万世一系の皇国史観が否定された時代の空気の中で、作り出されたと言えるかもしれません。
何よりも、騎馬による怒涛の征服という、分かり易さとロマンあふれるといった面も大きかったようにも思えます。
急に馬が現れた
時代の空気云々はともかくとして、こういった説が出て来る理由のようなものは勿論あります。
それは、馬に関わるもので、考古学的に見ると、有る時期を境に古代日本に急に馬が現れたように見えるのです。
そもそも、日本には牛馬がいませんでした。
弥生時代の遺跡からは、これまでのところ発見されていないようですし、『魏志倭人伝』にも、邪馬台国に牛馬なしと描かれています。
馬が飼育されるようになったのは、馬の歯や馬具の出土品などから、五世紀前後と考えられているようです。
古墳にも、馬具や埴輪が副葬されるようになります。
引用元:埴輪馬 文化遺産オンライン
この急にも見える馬の出現は、騎馬民族が大陸から攻め込んできたと考えると説明出来ると考えたわけです。
とは言っても
とは言っても、これには当初から様々な反論が有りました。
例えば、大陸から朝鮮半島を経由してやって来るという、各地に少なからず影響を与えた出来事だったにも拘わらず、中国、朝鮮、日本いずれの地域の史書にそれに関する事が一切出てこない点が挙げられます。
日本の記紀を見ても、登場人物が伝説の名馬に乗って活躍するといった場面は出て来ません。
現在の皇室の在り方を見ても、明らかに農耕民族のそれであり、騎馬民族ではないですし。
と言ったように、現在では主流の説という事ではないようです。
普通に考えれば
普通に考えれば、大陸との交流の中で、次第に持ち込まれていったというところでしょうか。
ところが、本ブログで採っている邪馬台国東遷説で考えると、少し違って見えます。
本ブログの説では、朝鮮からの亡命者のもたらした大陸の動乱に関する情報を基に、東遷を行ったと考えています。
その亡命者は、当然牛馬に関する知識が、その有効性も含めて分かっていたはずです。
それを基に、いち早く導入出来たことが、大和政権の覇権への一助となったのではないでしょうか。
もっとも、いち早くとはいっても、馬を戦力として継続的に導入できるように成るには、謎の四世紀を経て五世紀までの約一世紀の時間がかかったという事になりますが。
ひょっとしたら、東遷途中の四世紀の間はそれどころでは無く、安定が見えてきた五世紀になってから本格化したという事なのかもしれません。
その為、騎馬による戦闘の跡などは見つからないのです。
征服されたわけではなく、サポートが有ったというところでしょうか。
ではでは