横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

東遷したのは

邪馬台国の東遷について考えた話です

 

 

前回の話

 前回の話では、魏志倭人伝に数多くの記述がある「国」について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

貨幣経済が普及していたような証拠が発見されていないことから、当時の「国」は、我々が考える国家というようなものでは無く、農耕を背景とした権力が存在する村落共同体といった感じのものだった、という話でした。

卑弥呼は名称こそ女王となっていますが、どちらかといえば、それぞれの村落共同体の権力層による合議体の対外的な代表のような立場だったのではないかという事になります。

邪馬台国の東遷

 一方、本ブログでは邪馬台国について、その位置については九州の宇佐だという立場を採っています。

更に、その後九州から畿内に東遷をし、大和政権となったと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東遷した理由としては、中国での五胡十六国と呼ばれる、動乱の時代が影響したと見ています。

その動乱を避けて、邪馬台国へ亡命してきた人達からもたらされた情報を基に、東遷を決断したのです。

朝鮮半島経由で、動乱が九州にも及ぶことを恐れたという事になります。

この動乱が収まり、再び中国で歴史が記録されるようになったときには、邪馬台国は無くなって(大和政権になって)いました。

これが、いわゆる「謎の4世紀」という訳です。

九州に残った勢力

 「謎の4世期」については、概ねそのような事だと思います。

その中で、邪馬台国がごっそりと畿内に移って、大和政権になったと考えていたわけですが、それとは異なるパターンも有る事に気が付いて記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

畿内に東遷したのは、一部の人々で、九州に残った人たちも少なからずいたのではないかという事です。

その九州に残った勢力が、「広開土王碑文」に記された「倭人」だったのではないか、さらに、中国に朝貢した「倭の五王」もこの勢力の指導者だったのでは無かったかと考えたわけです。

東遷したのは

 この、東遷したのは一部の人達で、多くは九州に残ったのではないかという仮説は、前回の話を前提とすると、納得出来そうです。

動乱を避けて亡命してきた人達のもたらした情報では、村落共同体の権力層を納得させる事は出来なかったという事なのでしょう。

村落共同体は、農耕に、言い換えればその土地に依存していると言えます。

その人々に、土地を捨てて、どうなるか分からない畿内に移る事を納得させることは出来なかったのです。

それに対して邪馬台国は、争いを収めるために作られたものであり、移動することを選択し易かったのかもしれません。

当然、亡命して来た人々は、中国で行われていた中央集権的な制度の知識もある訳で、東遷した後の大和政権のあり方に影響を与えたと考えられます。


 それにしても毎日暑いです。昔は、昼間暑くても、夜になると涼しかったと思うんですけど。


ではでは