横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

囲碁について(五里霧中編)

ど素人が囲碁について考えた話(五里霧中編)です

 

 

囲碁の対局番組

 過日、漫然とチャンネルを変えていたら、囲碁の対局を放送していました。

いつもは、昼にやっている、NHK杯テレビ囲碁トーナメントが、オリンピック放送の影響で夜にズレたもののようでした。

で、何とはなしに見ていたのですが、まぁこれが分からない。

普通、30分近く見ていれば、どんな分野でも何をやっているかぐらいは、なんとなく分かるものだと思っていたのですが。

勿論、白黒の石を交互に打っていることは、見ればわかります。

それが、いくら見ても、やっていることが、何を意図しているかが分からないのです。

衝撃的に分からない

 途中で、プロ棋士による解説が入るのですが、聞いてもさっぱり分からない。

そして極めつけは、一方の棋士が負けを認めて試合が終了したのですが、その盤面を見てもどうして負けを認めたのか、はたまた、それが黒白どちらなのかすら分から無いのです。

昔から囲碁は気にはなっていたのです。

今でこそPCを使って簡単に出来るようにはなりましたが、以前は始めるのに若干敷居が高いし、周りにやっている人もいなかったのという事も有って、横目で見るともなく見るといった感じでこの年まで来てしまいました。

それが、いざ正面から見てみると、全くと言っていいほど、訳が分からないのです。

これはチョット衝撃的でした。

将棋も初心者だが

 将棋についても、入門的な内容を一通り理解した程度の知識しかありませんが、同じようにNHKで放送されているトーナメントを見ても、少なくとも、全く分からないという事は無いです。

さすがに、個々の指し手の意図が分かる訳では無いですが、解説を見れば、多少は理解出来ますし、目標が王将だという事は明白ですから。

もっとも将棋でも、プロなどの試合では、どうしてそれで負けを認めるのか分からないといった事は、無いでは無いですが。

調べてみた

 という訳で、ここまで分らないままなのも癪なので、ネットでいくつか囲碁の入門編を載せているサイトで調べてみました。

幾つか見てみたのですが、基本的には入門編なので、まずルールの説明が有ります。

囲碁の最低限必要なルールは、なんと4つだけでした。

1.交点に打つ(基本的に、どこに打っても良い)
2.黒と白が交互に1手ずつ打つ
3.石から出ている線を全て囲むと取れる
4.石で陣地を囲み、多い方が勝ち

で、それぞれの内容について説明が有る事になります。

まあ、1と2についは、それ以上説明の必要も無いので、3に関連する話が続くことが多いです。

どうやったら、相手の石を囲むことが出来るかとか、それに関連して打てない場合も有るとか言った話になる訳です。

以上が分かれば、理屈の上では、囲碁が始められます。

といわれても、というのが正直なところでは無いでしょうか。

ネット上にも、どこに打っても良いと言われても、何をどうすればいいのかわからない、というような意見が散見されます。

勝つための考え方が分からない

 4に関する、どうやって陣地を囲むのかと言った話は何時まで経っても出て来ません。

将棋だと、最後は王将を追い詰めた状態に持ち込めば勝ちとなるので、その練習法として詰将棋というものがあったりします。

と思っていたら、碁にも、詰碁というものが有るじゃないですか。

では、詰碁を解けば、勝ったという状態になるのかと言えば、そうでは無いのです。

詰碁は、主に3に関わるもので、どうやったら取れるのか、取られずに済むのかを考えるものになります。

どうやら、目指すべき陣地の形とか、こうやったら多く囲んで勝ちになるとかいったものは無いようなのです。

少なくとも、これまでの所見つけられずにいます。


という訳で、囲碁のゴールへ至る道筋が、五里霧中なまま次回へ続きます。


ではでは

特に鳥の季節という訳ではありませんが(解答編)

大人の自由研究第三弾(解答編)の話です

 

 

疑問編

 前回の疑問編では、なぜ日の出と共に鳥の活動が活発になるのかについて、考えてみました。

その原因として、鳥目だから、単に明るくなったから、直接日光が見えるようになるから、と3つの仮説について考えて見ましたが、いずれも原因としては不十分でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

第三弾にして初めて答えと思われるものにたどり着きました。

それは鳥目について調べている時に分かった、鳥の眼が持つ、人間にはない機能に関係します。

鳥の眼と紫外線

 前回の記事でも書いたように、鳥が鳥目だというのは、トンでもない勘違いでした。

それどころか、人間には見る事の出来ない、紫外線も見ることが出来るようです。

そのため、人間の目には

f:id:t_arata:20210822221130p:plain

引用元:鳥には世界がどう見えている? 人間にはない驚きの眼の機能 - ログミーBiz

 

のように見えている鳥も、同じ鳥からは

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引用元:同上

のように、鮮やかにみえているらしいです。

どうやら、この紫外線がカギを握っているのではないかというのが、今回の記事のポイントになります。

朝焼けが赤いのは

 さて、これも前回の記事でも出て来ましたし、誰でも知っていることですが、夜明けは日の出で突然明るくはなりません。

朝焼けという言葉もある様に、日の出前に東の空が、夕焼けのように、赤っぽい色に染まることとから始まります。

この現象については、波長の長い赤色系の光よりも、波長の短い青色系の光の方が、大気中の微粒子によって散乱し易い事に拠ります。

その為、地平線や水平線の下から反射などしてやって来る、直接光よりはるかに少ない光の、青色系の部分が散乱してしまい、我々の目に届くころには、赤色系の光しか残っていないので、赤っぽく見えるという事になります。

そして日の出後には、直接光になり光量が上がるため、青色系の光は一部は散乱しますが、目に届くまでに無くなってしまうというような事は起こらず、いつも我々が見ている太陽光になるという訳です。

紫外線と日の出

 さて、今回注目している紫外線は、紫の外の線というぐらいですから青色系の光よりも波長が短い光という事になります、そして青色系の光と同じように散乱します。

それどころか、可視光よりも散乱し易いようです。

従って、紫外線は、日の出を境に、光量が急激に増加すると考えられます。

日の出により紫外線が増えてても、我々人間には分からないのですが、鳥にとっては明るくなったという事になり、その結果活動が増えたと考えることが出来そうです。

又、曇りや雨の日にも日焼けをすることからわかる様に、天気に関係なく、紫外線は地上に届きます。

よって、曇りや雨の日にも、日の出が分かるという事になると考えられます。

前回の記事で否定した、明るくなったから動き出したという仮説は、紫外線で考えると正しかったという事になります。


 大人の自由研究も、3つ目にして、初めて答えが出たと思っているのですが、今のところ裏は取れていません。


ではでは

特に鳥の季節という訳ではありませんが(疑問編)

大人の自由研究第三弾の話(疑問編)です

 


大人の自由研究第三弾

 これまで、ハエとセミについて、大人の自由研究をしてきました。

 

yokositu.hatenablog.com 

yokositu.hatenablog.com

 

まあ、研究というよりは、疑問なことをチョット調べて書いて見たといった程度ものですが。

しかも、結論は良く分からないという。

今回は、その第三弾、鳥についてです。

鳥と日の出の関係

 と言っても、もちろん夏だからといって、鳥と特別な関係が有る訳では無いのですが、大人の自由研究にかこつけて、以前からチョット気になっていたことを、改めて調べてみましたという事になります。

そのチョット気になっていたのは、鳥と日の出の関係についてです。

夏の今は、日の出の時間が早くて、その時間に起きているという事は普通はありませんが、日の出の時間が遅くなる冬の時期などには、その時間に起きている事が多くなります。

そんな時に。気になったのが、鳥です。

どうも、日の出の時間になると、鳥が動き出しているようなのです。

それまで静かだった周辺が、明らかに急に騒がしくなります。

鳥目だから?

 理由として最初に考えたのは、鳥目だからというものです。

鳥目というのは夜盲症の俗称ですから、夜は見えないまたは見えにくという症状を指します。

鳥の目というからには、鳥もそうなのだろうと一般には考えられていると思います。

なので、夜の間見えにくかったものが、日の出以降になれば、見えるようになって、活動が活発になるのではないかという事です。

しかし、残念ながら鳥は一般的に鳥目すなわち、夜に見えなくなるということはありません。

これは、チョット考えれば、夜行性の鳥もいたりするので、そんなはずはない事が分かります。

どうやら、身近にいるニワトリが夜はほとんど見えなくなることから、言われるようになったようです。

直接日光を感じている

 二つ目の仮説は、頭を出した太陽からの日光を、直接感じているのではないかというものです。

しかしながら、地平線や水平線などの日の出が直接見える場所であれば違うかもしれませんが、我が家の有る場所からは、直接見える事は有りません。

それに加えて、曇りや雨の日でも、鳥の動きは変わらず活発になるのです。

さすがに、雨の日は、そうでない日に比べてその程度は小さくなりますが。

明らかに、直接日の光を見ているからではなさそうです。

明るくなったから?

 三つ目の仮説は、もっと単純に考えて、単に明るくなったから動き始めたんじゃないかというものです。

しかし、日の出の時間に起きていればすぐにわかる事ですが、その時間に急に明るくなるという事は有りません。

古来、あかつき、しののめ、あけぼのと言った言葉が有る事からも分かる様に、日の出前から次第に明るくなっていくものです。

日の出の時間になったからといって、それが分かるほどの変化はありません。

これも結論は出ずか?

 という訳で、第一、二弾に続いて、第三弾も結論出ずになりそうな雰囲気が濃厚でした。

が、今回は、本人的にはこれが答えでは無いかという仮説にたどり着きました。

という訳で、次回は、私なりの解答編です。


 最近、話の引っ張り方がワンパターン化しているような気もしますが、おそらく気のせいです。


ではでは

海を渡る、1000余里、末廬国に至る その3

魏志倭人伝』中の末廬国までの海路について考えた話(その3)です

 

 

前回の記事

 前回の記事で、『魏志倭人伝』に記述が有る、邪馬台国までの旅程の中で、特に九州までの海路の表現内容について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 結論は次のようなものでした。

 「出発時に目的地が視認出来ないときは、方位も記す」

前回の記事の終わりで書いたように、この結論を基に、九州への上陸地点を考えてみようというのが、今回の話になります。

壱岐一支国

 先ずは、壱岐周辺の地図を見てもらいたいと思います。

 

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引用元:Googleマップ(赤丸と赤矢印は筆者が追記)

現在の壱岐市における行政の中心は、市庁舎などの有る旧郷ノ浦町の辺りという事になるでしょうか。

地図でいうと、壱岐市と書いてある辺りとなります。

それに対して、地図上で赤丸で示した辺りに、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模な遺跡である、原の辻遺跡があり、一支国の中心はこちらで有ったと考えられているようです。

使者の到着した場所

 前回の記事で参考にしたブログ記事にも、今回の結論の情報源である、遠澤葆(2003)『魏志倭人伝の航海術と邪馬台国成山堂書店、から次のように引用されています。 

壱岐から末盧国への発航地について、遠澤葆は、「帯方郡使船は勝本から壱岐島の東岸を陸岸伝いに南下し、内海湾に入り、その奥の幡鉾川河口付近に停泊した」という。この付近の地形と幡鉾川の約1.5キロ上流にある壱岐島で最も大きな集落である原の辻遺跡の存在から、「ここでの長期停泊には全く問題がなかった」という。だから、帯方郡使船は、幡鉾川河口付近から出航した、という。
引用元:遠澤葆「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」を読んで(2) | 気まぐれな梟

 

という事で、魏からの使者は、原の辻遺跡付近に到着したと考えることが出来そうです。

使者の出発した場所

 そうであるならば、末廬国へ向かって出発したのもここからという事になります。

さてその場合、地図を見てもらえば分かる様に、赤丸のすぐ東に有る内海湾から出発する事になります。

その時に、内海湾は東に向かって開いており、南の松浦市の方向は小高くなっているために、九州本土を視認することは出来ないと思われます。

その結果、赤い矢印で示したように、視認できるのは東の宗像市付近のみという事になります。

この事と、末廬国への旅程の記述に方位の無かった点を考え合わせると、目的地は宗像市付近だったという事になります。

距離的にも問題ない

 勿論、こう考えれば、松浦市付近までの距離としては長すぎると考えられる、1000余里という距離も、以前の記事でも書いたように、説明がつくことになります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

壱岐から宗像市付近までの距離は、約70キロであり、70数メートルとされる短里が使われていたと考えれば、概ね一致します。

まとめると

 壱岐一支国)の出発地である内海湾から、東の方向に視認できる宗像市付近つまり末廬国までの距離が、1000余里だったのです。

その結果として記述は、「海を渡る、1000余里、末廬国に至る」となった訳です。

結構いいところをついていると思うのですが、いかがなものでしょうか。

 

 このコロナ禍が終わったら、確認のために、北部九州に行きたくなってきました。


ではでは

海を渡る、1000余里、末廬国に至る その2

魏志倭人伝』中の末廬国までの海路について考えた話(その2)です

 

 

前回の記事

 前回の記事は、本ブログの邪馬台国論のポイントの一つである、一支国からに渡る部分の記述に方位が無い事に関してでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

方位が入っていないのは、報告として問題がありそうなのに、どうなのかという話でした。

もう一か所の方位の無い部分

 ところで、旅程の中に、もう一か所方位の無い部分が存在します。

以下に、再度、邪馬台国までの旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一支国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

太字で示したように、朝鮮半島から対馬に渡る部分で、「海を渡る、1000余里、対馬国に至る」とあります。

それに対して、次の対馬から壱岐に渡る部分には、「南へ、海を渡る、1000余里、一支国に至る」としっかり方位の記述が有ります。

これらと、壱岐から九州までの三つの部分は、何れも距離的には1000余里となっており、距離によって方位が入ったり入らなかったりするという訳でもなさそうです。

答えを見つけた

 そのあたりも含めて昔から疑問だったのですが、前回の話での終わりにも書いたように、とうとう答えと思われる内容の記事に行き当たりました。

ameblo.jp

詳しくは上記のブログを見てもらうとして、要約すると以下のような事になります。

1.船での出発時点で、目的地が見えている時には、そこに向かうだけなので、距離が分かっていればいい。
  対馬国までと、末廬国までの場合です。

2.目的地が見えない時には、距離と共に、向かう方位を定める必要が有る。
  一支国までの場合です。

よく考えると、当然の事なんですが、目から鱗の内容です。

ネットで調べてみた

 情報の基となる本は、元船員の方が書かれたもののようなので、間違ってはいないと思いますが、見える見えないという点を、ネットで調べてみました。

対馬からは、朝鮮半島の釜山の街並みや花火大会の花火が見えるようなので、対馬までの記述に方位はいらないという事になります。

対馬から壱岐については、条件が良ければ高い所から見えるようですが、港や船から見えると言う記述は見つかりませんでした。
確証は有りませんが、船での出発時には壱岐は見えないようです。
という事で、壱岐までの記述には、方位が必要になります。

壱岐から九州本土は、画像的には展望台からのものしか見つかりませんでしたが、松浦市付近のみならず宗像市付近についても、海岸から視認できる様です。
従って、末廬国までの記述に、方位はいらないことになります。

どうやら、「海路の場合、出発時に目的地が視認出来ないときは、方位も記す」という事だと考えて間違いなさそうです。

そうであれば、報告を基に同じ行程をたどる事も可能という事になります。

 

 以上の事を踏まえて、関係部分の地図を改めて見ていた時に、『魏志倭人伝』の記述の確かさだけでなく、上陸地が松浦市付近ではなく、宗像市付近であることの傍証にもなる事に気が付きました。
という事で、次回は、九州への上陸地に関する話です。


ではでは

海を渡る、1000余里、末廬国に至る その1

魏志倭人伝』中の末廬国までの旅程について考えた話(その1)です

 

 

宇佐説の根拠の一つ

 このブログのメインコンテンツだと思っている邪馬台国論ですが、要約すると、その場所は現在の大分県宇佐市で、卑弥呼の墓は宇佐神宮であり、その後東遷をして、大和政権になったというものになります。

その説を考えるにあたって、ポイントの一つとなっているのが、その旅程の中で朝鮮半島から、対馬壱岐を経由して九州に上陸する場所になります。

以下に、「魏志倭人伝」に書かれた、邪馬台国までの旅程を示します。
   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

九州に渡る部分の「海を渡る、1000余里、末廬国に至る」について、普通は、壱岐から南に海を渡って、名称が似ている松浦市辺りに上陸すると考えられています。

それに対して、その表現の中に、方位を示す記述が無い事を良い事にに着目し、壱岐から東に海を渡ると考えます。

そして、距離1000余里の条件に合う、宗像市辺りに上陸すると、宇佐市に至る旅程として無理のないものになるというのが、本ブログの宇佐説の根拠の一つとなっています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 なぜ、この部分に、都合よく方位の記述が無いのでしょう。

これも陳寿の情報操作か

 本ブログの宇佐説を支えるもう一つのポイントに、『魏志倭人伝』の作者陳寿が、仕える皇帝の正当性を示すために、邪馬台国の位置について、実際よりも南方に存在するように情報操作を行ったと言うものが有ります。

ここも、陳寿による情報操作が有ったのでしょうか。

さすがに、ほぼ旅程の最初の部分とも言える、この部分で操作を行っても、邪馬台国の位置をそれほど操作出来るとは思われません。

加えて、操作をするならば、方位を削るのではなく、素直に南とすれば良いでしょう。

陳寿による変更は無く、基となった記録にそう書かれていたと見るべきでしょう。

報告として大丈夫か

 ところで、『魏志倭人伝』の邪馬台国への旅程の部分に関しては、魏から派遣された者の報告が残されており、それに基づいていると考えられます。

当然のことながら、単なる旅行記ではないわけですから、その旅程には、客観的な再現性が要求されると考えるべきでしょう。

そう考えると、方位の記述が無いのはどうかと思いますよね。

ましてや、何も目印になるものがない海上の記述なのですから、そんな報告をしたら、上役からどうなっているのかと指摘されそうです。

というのが、以前からの疑問だったのですが、どうやらその疑問に対する答えと思われるものにたどり着きました。


という訳で、次回は、方位に関する記述の無い理由についてです。


ではでは

セミの季節になりました

セミについて考えた話です

 

 

セミの季節

 今年も、当たり前のようにセミがうるさい季節となりました。

我が家の近所の何本かの木が、セミに気に入られているようで、最盛期には、早朝から大合唱になります。

うるさいと言っても、気が付くとセミが良く鳴いているなあといった感じなんですけどね。

完全に、環境音に溶け込んでしまっている感じでしょうか。

やはり、子供のころから、夏になると鳴くのが当たり前なので、あまり気にならないという事なのでしょう。

それでも、ここ何年かの殺人的と言ってもいいような暑さの中では、さすがにイラっとしたりすることもあるのですが。

雨の日には鳴かないのだが

 勿論、雨の日には見事なまでに鳴きません。

これは、セミが鳴くのは、オスがメスを呼ぶためで、雨が降っていると、メスが飛んでこれないので、鳴かないという事のようです。

そこまでは、知っていたのですが、今年になって、有る事に気が付きました。

今回は、それにまつわる、大人の自由研究第2弾です。

異常な雨の中で

 最近は、明らかに昔とは雨の降り方が違いますよね。

屋内にいても恐怖を感じるような豪雨とか、長時間に渡って、とんでもない雨量が記録されるとか。

大気が不安定とかで、一日中夕立が降ったりやんだりという、言葉の意味からすると訳の分からないことにもなったりします。

そういった非常識な天気の時にも、一応セミは、雨が降っている時には鳴かないという行動は変わりません。

その中で、アレッと思った瞬間が有ったのです。

夕立のような雨がザッと降って、止んで、また降り出すといった事を、何回か繰り返したのですが、その間、セミは鳴き止んだままだったのです。

意識してみた

 それから、何日かそういう日が有ったので(やっぱり、このところの天候は、何かおかしいですよね)、セミの鳴き声を意識してみました。

すると、確かに、雨間に鳴きださないという事が有る事を確認しました。

とは言え、いつもそうではなく、雨が止むと鳴きだすという事も、結構あったのです。

厳密に数えた訳では無いですが(ついつい、セミの声は無意識下に沈んでしまうのです)、感覚的には、鳴きだすことの方が多かったような気がします。

条件は何か

 そうなると次は、鳴き出すのと、出さないのを分ける条件は何かということになります。

すぐに思いつくのは、雨と雨の間隔が関係しているのではないかという事です。

常に止んですぐに鳴き出すと、時間をおかずに再び振り始めた場合に、メスが濡れてしまう危険を避けるためという訳です。

しかし、この点に関しては、明らかな傾向は有りませんでした。

止んですぐに鳴き始めることも有れば、次の雨まで比較的時間が有るにも関わらず、鳴き出さない事も有りました。

SF読みとしては、セミには短時間の未来を見る能力が有るという事にでもなれば、面白いのですが。

残念ながらそんなことは、有りそうもないので、何かほかの条件を考えなければなりません。

思いつく仮説としては、湿度や気圧の変化によっているというものでしょうか。

一応の結論

 セミは、雨が降るかどうかを判断出来る事が示唆された。
ただし、その方法については不明である。


自由研究と言いながら、ほとんどやっつけの内容でした。
これでは、8月31日に何とか間に合わせていた昔から、全く進歩が有りません。
ヒトは、なかなか変われないという事も分かったのでした。


ではでは

フローレンス人とホモ・サピエンス

フローレス人から我々ホモ・サピエンスについて考えてみた話です。

 

 

フローレス

 フローレス人は、インドネシアフローレス島で骨が発見された、ヒト属の一つです。
 
2003年に発見されました。

その最大の特徴は、成人でも約1mと見られる、小柄な体型です。
発見された当初は、子供の骨だと思われていたようです。

年代的には、当初は1万年ぐらい前まで生きていたと考えられましたが、現在では10万年~6万年前とされています。

新種かホビット

 脳の大きさが、同地域で見つかっている有名なジャワ原人よりも小さい事と、その低身長から、昔からの呼び方で言うと猿人と呼ばれていた、さらに古いヒト属から分かれた別系統の種では無いかと言う説も出ました。

しかし、これについては、フローレス人以外にアフリカの外で猿人とその近縁種が発見されたことはないので、考え難いという事になります。

丁度、同時期に話題となっていた映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の登場人物から、ホビットが発見されたという事で、話題にもなりました。

さすがにそれは有り得ない訳ですが、そうなると、彼らはどこからやって来たのかという事になります。

島嶼化したジャワ原人

 結論から言うと、これまでの研究によると、どうもジャワ原人から分化したという事のようです。

脳容積と身長の件については、いわゆる島嶼化によって、ジャワ原人が小さくなったと考えられるようです。

島嶼化ですから、フローレス島という物理的に孤立した島で生活しているうちに、小さくなったという訳です。

その説を補完するように、小型のゾウなどの島嶼化の結果とみられる動物も共存していたことが分かって来ています。

孤立した島のような環境に移り住み、その影響を他の動物達と同じように受けて、小型化を起こしたのです。

ところで、ホモ・サピエンスすなわち我々は、例えば太平洋の島々に渡り住んでも島嶼化を起こすという事は有りません。

この違いは何処に有るのでしょう。

残るは言語

 ジャワ原人は勿論、フローレス人も、二足歩行を行い、石器のような道具を作り、ある程度火も使っていました。

それでも、彼らは自然の一部であり、自然に影響するのではなく、自然の影響を受ける立場であった訳です。

すると、残る特徴は、言語という事になりそうです。

もっとも、原人にどの程度の言語能力が有ったのかは分かっていません。

とは言っても、他に有力な候補は見当たらないので、今のところ、言語の獲得こそが、我々を我々たらしめたものだった可能性が高いと言えそうです。


 2回目のワクチン接種を受けたのですが、意外や意外、打った部分の筋肉痛は前回ほどでなく、その他にも副作用は全く有りませんでした。


ではでは

中国王朝との戦い

中国王朝との戦いについて考えた話です

目次

歴史上の戦い

 歴史的に見ると、中国王朝の軍と戦った事は、それ程多くありません

有名な白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍と戦いました。

中国王朝の軍隊と戦ったという事になるのですが、実際には百済の援護と朝鮮半島での立場を守るための戦いであり、唐と正面切って事を構える気は無かったと思われます。

その次に、中国王朝の軍と相まみえたのは、いわゆる元寇の時になります。

これについては、説明するまでもなく、モンゴル王朝の元が日本に攻めてきたという図式になります。

細かく見ると、文永、弘安の二度に渡って攻めて来たのですが、一度目の文永の役の後、時の政権鎌倉幕府は、報復に出ることもなく、二度目の弘安の役を迎えることになります。

つまり、完全に防衛戦だった訳です。

直接戦いを仕掛ける相手では無かった

 そして、これらの戦いの前後では、遣隋使、遣唐使日明貿易などに見られるように、良好な関係を築くことが、基本方針で有ったと考えられます。

日本から見ると、中国王朝は、直接戦いを仕掛ける相手では無かったのです。

その背景には、前回の記事でも考えたように、彼我の1000年以上の文明の差が有ったのではないかと言うのが、私の見立てです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

勿論、いつまでも1000年の差を保ったままで、両国の歴史が進んで行いった訳はなく、日本側も追いつき追い越せで、その差を縮める努力をしたことは確かでしょう。

しかし、その事実以上に、中国にはかなわないという、心理的な枷が有ったように思われます。

やはり秀吉は特異か

 そうなると、秀吉の唐入り構想が特異なものに見えてきます。

まあ、さすが秀吉、考えることが違うという事にするか、一部でも言われているように、年を取ってボケの影響が有ったとも考えられます。

確かに秀吉がらみの話にしても良いのですが、秀吉にそう考えさせた背景が有るのではないかと思うのです。

上で触れた、日本側に有った枷を外す役割を担ったものが有ったのではないかと言うのが、今日の話の肝になります。

火縄銃の影響

 それは、火縄銃では無いかというのが、私の仮説です。

ご存知のように、火縄銃は、1543年に種子島ポルトガル人によりもたらされました。

ここで注目すべきは、ポルトガル人、すなわち西洋からもたらされた技術だったという点です。

勿論、当時のヨーロッパは大航海時代であり、火縄銃は日本だけでなく、アジア全域に持ち込まれたはずです。

なので、日本のみが優位な立場に立った訳では無いという事になります。

しかし、ポイントは、中国も含めてアジア全域にほぼ同時にもたらされたという点です。

その点だけを見れば、中国との間に差がない状況に立ったと言えるわけです。

その後、戦国時代という実戦で長足の進歩を遂げ、秀吉の時代には他のアジア諸国と比較して、有数の軍事力を持つに至りました。

枷が外れた

 スタートがほぼ同じだったわけですから、それ以前の彼我の歴史の差は関係ありません。

そう考えていたわけではないでしょうが、無意識のうちに、中国に対する心理的な枷を外していたのではないかと思うのです。

その事と、秀吉という稀有な存在が相まった結果が、唐入りを目指した朝鮮出兵だったのでは無いでしょうか。


 唐入りは、秀吉の死もあって失敗に終わる事になり、それもあってか、その後の徳川政権は、内向きの政権運営に終始することになります。
結果的には、枷が完全になくなるには、アヘン戦争により清が英国に打ち負かされることが必要だったと言うことなのだと思います。


ではでは

日本と中国との差

日本と中国の差について考えた話です

 

 

中国との関係

 以前の記事で、日本で長きに渡って、天皇を中心とするシステムが機能してきた背景には、その元となった中国で、皇帝による支配という形態が変わることなく続いたのが遠因では無いかと考えました。

 

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近代、現代の中国の状況と、日本との関係を考えると、この点に関しては、そこまで言うのはどうかなという気もするかもしれません。

しかし、近世までの日本にとっては、中国は、現代の我々が考える以上に、影響力が有ったと思うのです。

シンクロニシティ

 前回の記事を書いた後に、やはり中国の歴史は凄いと思わせる番組を見ました。

まさに「シンクロニシティ」とでもいうような感じで、こういったタイミングで、関係する情報に行き当たるのは、最近良くあるのですが、不思議な感じです。

番組は、中国紀行で、歴史上の場所を尋ねるといった感じのものでした。

その中で出て来たのが、長平でした。

長平の戦い

 その昔、中国に趙という国が有り、その名も趙括という武将がいました。
名将といわれた趙奢の子で、幼い時から兵学書に学び、その知識は、父の趙奢を論破するほどだったようです。

その趙括は、長平の戦いと呼ばれる戦いで戦死してしまいます、その時趙が失った兵力は、なんと40万人と伝わります。

さすがに40万人というのは、中国お得意の「白髪三千丈」の類だと思いますが、趙が一敗地にまみれたのは確かなようです。

そして趙括は、理論だけで実践がまるでだめだったことから、「紙上に兵を談ず」という故事成語を残すことになりました。

さて、この長平の戦いの相手は、秦国でした。

秦と言っても、かの始皇帝ではなく、その3代前の昭襄王の時代で、紀元前260年の事になります。

つまり、中国では、紀元前260年の時点で、すでに趙括のような知識だけの人物を生み出すほど、兵法書の類が存在していたという事です。

彼我の差

 これは、日本から見れば、驚くべきことと言わざるを得ません。

この時点から、500年程経って、やっと日本は邪馬台国の時代という事になります。

その時点でも、まだ文字による記録は、日本には存在していません。

しかも、長平の戦いの時点で、春秋戦国時代は500年程続いています。
勿論それ以前の周の時代には、すでに文字が使われていました。

文字という一点だけを見ても、中国と日本には、その時点で1000年以上の差があった事になります。

その後の日本の歴史は、この彼我の差をいかに埋め、克服していくかが課題だったとも言えると思うのです。

少なくとも、常に中国の存在を感じていたに違いないのです。

従って、その中国の統治システムの変化にも、現代の我々以上に、敏感だったと思われるのです。


 そう考えると、唐入りを構想した秀吉は、やはり別格という事でしょうか。


ではでは

ハエの季節となりました

ハエについて考えた話です。

 

 

ハエの季節になりました

 今年も暖かくというか、猛烈な暑さの季節となりました。

こうなると、いつものようにハエもやって来るわけです。

さすがに、昔のように飛びまわているという事も無くなり、蝿帳などを使う事は無いのですが。

それでも、食事を作っていると、気が付くと一匹か二匹が、周りを飛び回っているという事があります。

今年も来るようになったなと思っていたのですが、先日有る事に気が付きました。

それは、ハエのやって来るのに、パターンが有るのではないかという事です。

ひょっとしたら、作っている食事の内容と関係が有るのでは無いかと思ったのです。

こんな食べ物が好きです

 私自身は、魚は全般的に比較的好きな方なのですが、特に好きなのが、アジの開き等の、干物のように加工したものが好きです。

そんな中でも、最近はまっているのが、煮干しです。

それで取ったダシももちろん嫌いでは無いですが、特に電子レンジでチンして食べるのが好きなのです。

チンするだけなので、比較的手軽な干物等に比べても、さらにお手軽という事で、まあまあの頻度で食べることになったりしています。

煮干しをチンするとやって来る

 どうやら、ふと気が付くと、この煮干しをチンした日にだけ、ハエがやって来ているような気がしたのです。

確かに、煮干しをチンすると、その香りはかなりのものが有ります。

その日は、寝るころになっても、キッチンに匂いが残っているほどです。

それに引き付けられてやって来るという事なのでしょうか。

これは、調べてみるのも面白そうです。

少しだけ調べてみました

 という事で、本当にそうなのか少しだけ調べてみました。

先ず、大前提として、ハエのやって来るのは、ほぼ夕飯の準備をしている時だけというのが有ります。

これについては、活動する時間帯が有るのか、昼間は暑すぎるのかのどちらかなのかなと思っていました。

ただし、煮干しのチンとの関係で考えてみると、昼食に作ったことはほとんどないという事実も有ります。

ひょっとしたらと思い、昼にも作ってみました。

結果は、今のところ2日しかやっていないですが、両日ともハエはやって来ませんでした。

さて夕方の方はというと、過去一週間で、4日間作ったのですが(結構病みつきなのです)、そのうち3日にやってきました。

残りの3日は、予想通りにやってこないという結果になりました。

これは決まりでは無いかという気もするのですが、1日こなかったことや、その他に作ったものとの関係については、残念ながら、今のところはっきりとはしません。

一応の結論

 我が家の近所には、煮干しチンの匂いに引き付けられるハエがいることが示唆された

 


 世間は夏休みという事で、大人の自由研究もどきでした。

 


ではでは

日中の歴史上の統治体制

日本と中国の歴史上の統治体制について考えた話です

 

 

律令制は中国のみ?

 日本の律令制ですが、勿論中国のそれを手本としてます。

具体的には、唐の時代の制度を参考とした様です。

少し話は逸れますが、唐としては、皇帝が制定したものが律令であり、周辺の国家に制定させなかったらしいです。

明確に律令制が施行されたことがわかっているのは、日本だけのようです。

どうも許可を得ていたわけでは無いようです。

さすがに中華思想の本家本元の面目躍如と言ったところでしょうか。

日本の律令制の特徴

 その日本の律令制ですが、唐のものをそのまま取り入れたわけではありませんでした。

色々と日本の事情に合わせて変更された部分が存在します。

中でも、決定的な違いと考えられるのが、皇帝と天皇の権限です。

中国の皇帝は、何度もこのブログに出て来ましたが、天の天帝から命を受けて地上を統べるという建前になっていますので、人間が作った律令を越える存在という事になっています。

つまり、場合によっては、皇帝の命は律令を超越するという事です。

これに対して、日本においては、太政官が発議して、太政官議政官の合議で上奏する形式で、天皇の権力が制限されていました。

これは、それ以前の大和政権が、有力氏族の連合体的な性格であった事を反映しているとも考えられているようです。

この事は、結局日本には科挙の制度が導入されなかったことにも、見て取れそうです。

江戸時代まで続くことに

 いずれにしても、この事が、それ以降の藤原氏を始めとする権力を巡る構造をもたらしたと考えられそうです。

その結果、天皇を中心とした権力の枠組みが続くことになり、戦国時代に天下を目指すものが、京都を目指す原因になった、と考えたのが前回の記事でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その後の、豊臣政権は、関白になったのでそのものずばりですし、徳川政権も、征夷大将軍となって幕府を開いたという事で、江戸時代もそうだったという事になります。

結局千年以上の長きに渡って続いた訳ですが、上記のような事に関して調べているうちに、中国が、その原因とまでは言いませんが、遠因ぐらいになったのではないかと思いつきました。

中国も続いていた

 改めて考えてみると、中国は、その律令制を参考にした唐どころか、それ以前の歴代の王朝から始まって、最終的には清王朝に至るまでの長きに渡って、常に、皇帝がいて、統治を行うという形式でした。

天命による易姓革命という大枠に変化が無かったとも言えるわけです。

勿論、日本が常に中国の制度を後追いしてきたわけではありませんが、さりとて関係が全く無かったわけでもないでしょう。

常にその動向を気にかけていたはずです。

その中国が、統治体制の大枠に関してほぼ変化が無かったという事は、それを基にした日本の制度を変化させるきっかけのようなものが、もたらされることが無かったとも言えます。

これが、日本でも長きに渡って、天皇を中心とした体制が続いた、隠れた遠因なのでは無いでしょうか。


 やはり、なんだかんだと言っても、この地域において、中国の影響を無視した歴史は考えられないという事でしょうか。


ではでは

昔思った疑問への解答

昔思った疑問に対する解答を考えた話です

 

 

昔思った疑問

 中学生の頃だと思うのですが、日本史で戦国時代の授業を受けていた時に、ある事を疑問に思ったのです。
それは、どうして天下統一を目指す武将が京都を目指すのだろうという疑問です。

そんなことしなくても、自分の領地を中心にして周辺を攻め取っていくか、同盟を結ぶかして、最後に残った者が天下を統一する事になるんじゃないのかと考えたのです。

その事を、その時の教師に質問したのかどうかは、いまとなっては記憶も定かでは有りません。

いずれにしても、疑問に対する答えは得られないままでした。

といった事を、このブログで戦国時代について取り上げた時に、思い出しました。

今回は、その長年に渡る(と言っても、その間のほとんどの期間忘れていたのですが)疑問に対する、私なりの解答です。

長く続いた藤原時代

 日本の時代区分について考えてみた記事で、藤原時代が400年続いたことになると書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その間、支配体制は、一貫して天皇を頂点とした律令制でした。

もちろん、公地公民制から荘園公領制のような変化を筆頭として、制度が変質していったという事は有るのですが、支配の枠組みとしてのシステム自体は維持されて行きました。

逆に言えば、藤原氏がシステムの維持を図ることにより、その権力を保ったとも言えるかもしれません。

そのため、藤原時代の末期にもなると、天皇を中心とする統治システムが長きにわたって続いたために、社会の在り方として、あまりにも当然の事になってしまっていたのではないでしょうか。

現在に置き換えて考えると、関ヶ原以降ずっと徳川政権が続いているようなものですからね。

権力は移っても

 例えば、その末期には、武力部門を担当することで、武家が台頭してくることになりますが、その筆頭ともいえる平氏は、結局、そのシステム内での栄達を目指しました。

その平氏を倒したのは、勿論源氏ですが、その源氏は、一見鎌倉に拠点を構え、異なる支配体制を築いたかに思えますが、実際には、征夷大将軍という官職に任命されたものでした。

武家政権としてその後を継いだ格好の室町幕府も、同様に征夷大将軍という立ち位置でした。
加えて、その拠点も京都に戻っています。

結局、律令制をベースにした、天皇を頂点とした統治システム内での権力争いが続いていたという事になります。
言い方を変えると、それ以外の考え方は思い浮ばなかったとも言えるのではないでしょうか。

問題の戦国時代は

 さて、室町時代の次が、若かりし私が疑問に思った戦国時代です。

その戦国時代については、以前の記事で取り上げました(その時に、はるか昔の疑問を思い出したのですが)。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

シュペーラー極小期が原因の天候不順による農業不振により、経済破綻が起き統治システムに綻びが生じたのが、戦国時代の原因だと考えました。

そして、その混乱からの回復過程が、戦国時代と聞いて思い浮かべがちな、桶狭間以降の流れだった訳です。

結局システムの踏襲だった

 そんな中で、各大名が目指したのは、これまで当然のように慣れ親しんできた、既存の統治システム内での権力の掌握だったのでは無いでしょうか。

その表れが、権力を望むものが、こぞって京都を目指すという形だったと思うのです。

その結果天下を統一した豊臣秀吉が就任したのが、関白という従来の統治システムの官僚機構のトップとも言える地位だったというのが、その事を示しているのではないでしょうか。

結局、全国的な動乱の時代で有った戦国時代をも、天皇を中心とした統治システムは命脈を保って、生き延びたという事になります。

という訳で、若き私が思った疑問に対する答えは、「みんなそういうものだと思っていた」というものになります。

言い方を変えると、あまりにも当然で、それ以外の方法を誰も考えもしなかった、という事になるかと思います。


 ワクチン接種後の腕の痛みは、接種の翌日がピークで、3日目には無くなりました。
2回目の接種の時には、翌日に予定を入れないようしようかと思っています。


ではでは

最近気が付いたこと

最近気が付いたことの話です

 

 

瞑想をやっています

 以前に、仏教について記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時に色々と調べた事も有って、それ以降、瞑想の真似事みたいなことをやる様になりました。

と言っても、やったりやらなかったりの、トンだ生臭なのですが。

そんな瞑想ですが、すこし前にやっている時に、アレッと思う事が有ったのです。

アレッと思った事

 ご存知のように、瞑想では、なるべく何も考えない状態を目指します。

以前の記事でも出て来た、「定」の状態です。

とは言っても、勿論そんな状態には程遠く、瞑想をやっているほとんどの時間、何かを思い浮かべているというのが、本当の所なんですが。

それでも、考えていることに気が付いて、また呼吸に集中しようと努力する訳です。

その流れのひとつで、アレッと思ったのです。

考える時に、左から見て考えているなと。

左から考える

 目を閉じて瞑想をしているのですが、その時に何かを考え始めると、その内容を映像で見ているような感じになります。

その時に、その映像を、左から見ているような感じなのです。

映画館で例えると、スクリーンに向かって、左半分の何処かの座席から見ているような感じなのです。

右から見ようと思えば見られるのですが、意識しないとその状態を維持するのが難しいのです。

視線と嘘

 面白いなと思って、チョット調べてみたのですが、そのものズバリの情報には行き当たりませんでした。

タダ、少し関係が有るかなと思ったのが、「視線で嘘を見抜く」という話です。

人は、記憶を思い出している時にはその人から見て左上を、記憶にない事を想像している時には右上を見る、らしいのです。

そのため、右上を見ている時には、嘘をつくために考えを巡らしている可能性が高いという訳です。

なるほどと思って、確認してみたのですが、瞑想中に過去の事を思い出しても(もはや瞑想では無い気もしますが)、右側から見るような事はないようです。


今回の話に特に結論やオチは有りません。


 コロナワクチンを打った箇所の痛みのせいで、腕の可動範囲が非常に狭い状態なので、今回はこの辺で。
ワクチンが早く早く行き渡って、コロナが下火になることを願うばかりです。


ではでは

日本の時代区分

日本の時代区分について考えた話です

 

 

日本の時代区分

 日本の時代区分というと、一般的には、奈良時代平安時代鎌倉時代などと、大まかに言って、その当時の政治的な中心のようなものがあった地域を名称として使っているという事になります。

その付け方に、何らかの明確な基準は有りません。

そのため、室町時代は、平安時代と同じ京都(平安京)に有ったので、足利義満の花の御所が有った地名を名称とするという、いささか苦しいことになっていたりします。

権力との関係が見えにくい

 また、それぞれの時代で、権力がどうなっていたのかという事と一致していなかったりしてややこしいです。

例えば、平安時代末期には、平氏の政権が出来るのですが、全く時代区分とは関係が有りません。

次の源氏の政権と比べて、いささか不公平じゃないですか。

平氏は幕府を作らなかったからだという見方もあるかもしれませんが、後の豊臣秀吉は、幕府を開かず、関白になったのですが、信長とまとめて安土桃山時代と呼ばれていますしね。

学術的区分

 一方、学術的には、古代、中世、近世、近代、現代という区分が使われているようです。

この区分の基準は何かと思って調べてみても、いまひとつ良く分からないのです。

例えば、中世はざっくり言うと、荘園が有った時代という事のようですし、近世は、秀吉の太閤検地により始まり、近代は、幕末から明治維新に始まると言ったように、明確な基準は無いように見えます。

因みに、近代の終わりは、先の敗戦という事のようです。

どうも、明治以降に輸入された西洋史での時代区分に、少なからず影響を受けたという背景も有るようです。

中国は明解

 ひるがえって、お隣中国を見てみると、その基準は明確で、各王朝の建てた国の名称が、時代区分となっています。

隋、唐、宋、元、明、清といった具合です。

これは、このブログでも何度か出て来たように、天帝による易姓革命という考えが背景に有るという事になります。

天命から次の天命までが一つの時代という訳です。

そういった考えがなく、一系の天皇が続く日本では、当然そんな基準は成り立たないという事なります。

氏族名を使って

 中国の王朝交代に代わるものとして、わが国では、権力を取った氏族の名前を使うというのはどうでしょうか。

藤原時代、平(たいら)時代、源(みなもと)時代、北条時代、足利時代・・・という感じにするのです。

こうする事により、後は、これらの氏族がどのような背景で権力を行使し、または衰退したのかという観点で考えていくことにより、ストーリーとして理解し易い気がするのですが。

勿論、全てこれで行くことは出来なくて、例えば戦国時代はそのまま使う事になりそうですし(中国にも戦国時代は有りますしね)、藤原時代以前は、どう考えるかといった点も有りそうです。

明治以降も、特定の氏族が権力を持っていた訳ではないので、どうするかは難しいところです。

少なくとも奈良時代から江戸時代まではカバー出来そうです。

 


 奈良時代から江戸時代終わりまでで約1200年弱なんですが、今回の時代区分だと、そのうち最初の約400年は藤原時代になります。
藤原氏恐るべしですね。

 


ではでは