仏教について考えてみた話(6)です。
仏教について考えたこと
前回まで、5回に渡って、仏教について考えてきました。
先ず、その中核とも言える「悟り」と物理的な現象であるブラックホールの類似性をヒントに、「悟り」に至る方法論である、各宗派における各種修行を手掛かりにして考えてみました。
その結果、一見して全く異なっているように見える、各宗派の修行も、結局は、お釈迦様が最初に説かれた、四諦と八正道に基づいて、実践をするものであることが分かりました。
更に、お釈迦様も含めて、「悟り」を開いた人々の話から、修行に加えて、何らかのきっかけが、「悟り」に至るのに必要なことも示されました。
修行の有り様と、きっかけの必要性から、完全に思考の無くなる瞬間が生じることが、「悟り」に至るのに重要な役割を果たしているのではないかと考えました。
結論のようなもの
以上、お釈迦様が説かれた教えとしての仏教の、中核部分の全体的な立て付けのようなものに関しては、ある程度はっきりとしたように思います。
しかし、残念ながら、その中心にあるはずの「悟り」に関しては、やはりよく分からないままです。
まあ、2500年程かけて、あまたの人々が思索を重ねて来ても、「不立文字」のままな訳で、そんなに簡単に分かるものでもないのは、重々承知の上なんですけどね。
理系人間の、悪あがきです。
これ以上は、実践あるのみという事になるのですが、正定と正念の実践として、千日回峰は論外として、坐禅あたりをするのは考えてもいいかなとは思うんですけど、正思惟、正語、正業、正命、正精進を考えれば、「悟り」は難しいでしょうね。
もう一つ気付いたこと
色々と調べて、考えているうちに、もう一つ気付いたことが有ります。
それは、お釈迦様の説かれた教えに関しては、何かを信じたからと言って、何か(幸せとか長寿のような)が約束される訳では無いという事です。
四諦と八正道を完全に理解して、信じたとしても、実践しなければ何も始まらない訳です。
仏教は、元々、無条件に何かを信じるか信じないかというものでは無かったという事です。
これは宗教としては、なかなか面白い特徴ではないでしょうか。
仏教に関しては、まだまだ面白そうな事が色々とあるのですが、またなにか纏まったら書きたいと思います。
ではでは