中国王朝との戦いについて考えた話です
目次
歴史上の戦い
歴史的に見ると、中国王朝の軍と戦った事は、それ程多くありません
中国王朝の軍隊と戦ったという事になるのですが、実際には百済の援護と朝鮮半島での立場を守るための戦いであり、唐と正面切って事を構える気は無かったと思われます。
その次に、中国王朝の軍と相まみえたのは、いわゆる元寇の時になります。
これについては、説明するまでもなく、モンゴル王朝の元が日本に攻めてきたという図式になります。
細かく見ると、文永、弘安の二度に渡って攻めて来たのですが、一度目の文永の役の後、時の政権鎌倉幕府は、報復に出ることもなく、二度目の弘安の役を迎えることになります。
つまり、完全に防衛戦だった訳です。
直接戦いを仕掛ける相手では無かった
そして、これらの戦いの前後では、遣隋使、遣唐使、日明貿易などに見られるように、良好な関係を築くことが、基本方針で有ったと考えられます。
日本から見ると、中国王朝は、直接戦いを仕掛ける相手では無かったのです。
その背景には、前回の記事でも考えたように、彼我の1000年以上の文明の差が有ったのではないかと言うのが、私の見立てです。
勿論、いつまでも1000年の差を保ったままで、両国の歴史が進んで行いった訳はなく、日本側も追いつき追い越せで、その差を縮める努力をしたことは確かでしょう。
しかし、その事実以上に、中国にはかなわないという、心理的な枷が有ったように思われます。
やはり秀吉は特異か
そうなると、秀吉の唐入り構想が特異なものに見えてきます。
まあ、さすが秀吉、考えることが違うという事にするか、一部でも言われているように、年を取ってボケの影響が有ったとも考えられます。
確かに秀吉がらみの話にしても良いのですが、秀吉にそう考えさせた背景が有るのではないかと思うのです。
上で触れた、日本側に有った枷を外す役割を担ったものが有ったのではないかと言うのが、今日の話の肝になります。
火縄銃の影響
それは、火縄銃では無いかというのが、私の仮説です。
ご存知のように、火縄銃は、1543年に種子島にポルトガル人によりもたらされました。
ここで注目すべきは、ポルトガル人、すなわち西洋からもたらされた技術だったという点です。
勿論、当時のヨーロッパは大航海時代であり、火縄銃は日本だけでなく、アジア全域に持ち込まれたはずです。
なので、日本のみが優位な立場に立った訳では無いという事になります。
しかし、ポイントは、中国も含めてアジア全域にほぼ同時にもたらされたという点です。
その点だけを見れば、中国との間に差がない状況に立ったと言えるわけです。
その後、戦国時代という実戦で長足の進歩を遂げ、秀吉の時代には他のアジア諸国と比較して、有数の軍事力を持つに至りました。
枷が外れた
スタートがほぼ同じだったわけですから、それ以前の彼我の歴史の差は関係ありません。
そう考えていたわけではないでしょうが、無意識のうちに、中国に対する心理的な枷を外していたのではないかと思うのです。
その事と、秀吉という稀有な存在が相まった結果が、唐入りを目指した朝鮮出兵だったのでは無いでしょうか。
唐入りは、秀吉の死もあって失敗に終わる事になり、それもあってか、その後の徳川政権は、内向きの政権運営に終始することになります。
結果的には、枷が完全になくなるには、アヘン戦争により清が英国に打ち負かされることが必要だったと言うことなのだと思います。
ではでは