横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

昔思った疑問への解答

昔思った疑問に対する解答を考えた話です

 

 

昔思った疑問

 中学生の頃だと思うのですが、日本史で戦国時代の授業を受けていた時に、ある事を疑問に思ったのです。
それは、どうして天下統一を目指す武将が京都を目指すのだろうという疑問です。

そんなことしなくても、自分の領地を中心にして周辺を攻め取っていくか、同盟を結ぶかして、最後に残った者が天下を統一する事になるんじゃないのかと考えたのです。

その事を、その時の教師に質問したのかどうかは、いまとなっては記憶も定かでは有りません。

いずれにしても、疑問に対する答えは得られないままでした。

といった事を、このブログで戦国時代について取り上げた時に、思い出しました。

今回は、その長年に渡る(と言っても、その間のほとんどの期間忘れていたのですが)疑問に対する、私なりの解答です。

長く続いた藤原時代

 日本の時代区分について考えてみた記事で、藤原時代が400年続いたことになると書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その間、支配体制は、一貫して天皇を頂点とした律令制でした。

もちろん、公地公民制から荘園公領制のような変化を筆頭として、制度が変質していったという事は有るのですが、支配の枠組みとしてのシステム自体は維持されて行きました。

逆に言えば、藤原氏がシステムの維持を図ることにより、その権力を保ったとも言えるかもしれません。

そのため、藤原時代の末期にもなると、天皇を中心とする統治システムが長きにわたって続いたために、社会の在り方として、あまりにも当然の事になってしまっていたのではないでしょうか。

現在に置き換えて考えると、関ヶ原以降ずっと徳川政権が続いているようなものですからね。

権力は移っても

 例えば、その末期には、武力部門を担当することで、武家が台頭してくることになりますが、その筆頭ともいえる平氏は、結局、そのシステム内での栄達を目指しました。

その平氏を倒したのは、勿論源氏ですが、その源氏は、一見鎌倉に拠点を構え、異なる支配体制を築いたかに思えますが、実際には、征夷大将軍という官職に任命されたものでした。

武家政権としてその後を継いだ格好の室町幕府も、同様に征夷大将軍という立ち位置でした。
加えて、その拠点も京都に戻っています。

結局、律令制をベースにした、天皇を頂点とした統治システム内での権力争いが続いていたという事になります。
言い方を変えると、それ以外の考え方は思い浮ばなかったとも言えるのではないでしょうか。

問題の戦国時代は

 さて、室町時代の次が、若かりし私が疑問に思った戦国時代です。

その戦国時代については、以前の記事で取り上げました(その時に、はるか昔の疑問を思い出したのですが)。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

yokositu.hatenablog.com

 

シュペーラー極小期が原因の天候不順による農業不振により、経済破綻が起き統治システムに綻びが生じたのが、戦国時代の原因だと考えました。

そして、その混乱からの回復過程が、戦国時代と聞いて思い浮かべがちな、桶狭間以降の流れだった訳です。

結局システムの踏襲だった

 そんな中で、各大名が目指したのは、これまで当然のように慣れ親しんできた、既存の統治システム内での権力の掌握だったのでは無いでしょうか。

その表れが、権力を望むものが、こぞって京都を目指すという形だったと思うのです。

その結果天下を統一した豊臣秀吉が就任したのが、関白という従来の統治システムの官僚機構のトップとも言える地位だったというのが、その事を示しているのではないでしょうか。

結局、全国的な動乱の時代で有った戦国時代をも、天皇を中心とした統治システムは命脈を保って、生き延びたという事になります。

という訳で、若き私が思った疑問に対する答えは、「みんなそういうものだと思っていた」というものになります。

言い方を変えると、あまりにも当然で、それ以外の方法を誰も考えもしなかった、という事になるかと思います。


 ワクチン接種後の腕の痛みは、接種の翌日がピークで、3日目には無くなりました。
2回目の接種の時には、翌日に予定を入れないようしようかと思っています。


ではでは