『魏志倭人伝』中の末廬国までの海路について考えた話(その2)です
前回の記事
前回の記事は、本ブログの邪馬台国論のポイントの一つである、一支国からに渡る部分の記述に方位が無い事に関してでした。
方位が入っていないのは、報告として問題がありそうなのに、どうなのかという話でした。
もう一か所の方位の無い部分
ところで、旅程の中に、もう一か所方位の無い部分が存在します。
以下に、再度、邪馬台国までの旅程を示します。
帯方郡
↓
南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
↓
海を渡る、1000余里、対馬国に至る
↓
南へ、海を渡る、1000余里、一支国に至る
↓
海を渡る、1000余里、末廬国に至る
↓
東南、陸行、500里、伊都国に至る
↓
東南、100里、奴国に至る
↓
東、100里、不弥国に至る
↓
南、水行、20日、投馬国に至る
↓
南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
↓
邪馬台国
太字で示したように、朝鮮半島から対馬に渡る部分で、「海を渡る、1000余里、対馬国に至る」とあります。
それに対して、次の対馬から壱岐に渡る部分には、「南へ、海を渡る、1000余里、一支国に至る」としっかり方位の記述が有ります。
これらと、壱岐から九州までの三つの部分は、何れも距離的には1000余里となっており、距離によって方位が入ったり入らなかったりするという訳でもなさそうです。
答えを見つけた
そのあたりも含めて昔から疑問だったのですが、前回の話での終わりにも書いたように、とうとう答えと思われる内容の記事に行き当たりました。
詳しくは上記のブログを見てもらうとして、要約すると以下のような事になります。
1.船での出発時点で、目的地が見えている時には、そこに向かうだけなので、距離が分かっていればいい。
対馬国までと、末廬国までの場合です。
2.目的地が見えない時には、距離と共に、向かう方位を定める必要が有る。
一支国までの場合です。
よく考えると、当然の事なんですが、目から鱗の内容です。
ネットで調べてみた
情報の基となる本は、元船員の方が書かれたもののようなので、間違ってはいないと思いますが、見える見えないという点を、ネットで調べてみました。
対馬からは、朝鮮半島の釜山の街並みや花火大会の花火が見えるようなので、対馬までの記述に方位はいらないという事になります。
対馬から壱岐については、条件が良ければ高い所から見えるようですが、港や船から見えると言う記述は見つかりませんでした。
確証は有りませんが、船での出発時には壱岐は見えないようです。
という事で、壱岐までの記述には、方位が必要になります。
壱岐から九州本土は、画像的には展望台からのものしか見つかりませんでしたが、松浦市付近のみならず宗像市付近についても、海岸から視認できる様です。
従って、末廬国までの記述に、方位はいらないことになります。
どうやら、「海路の場合、出発時に目的地が視認出来ないときは、方位も記す」という事だと考えて間違いなさそうです。
そうであれば、報告を基に同じ行程をたどる事も可能という事になります。
以上の事を踏まえて、関係部分の地図を改めて見ていた時に、『魏志倭人伝』の記述の確かさだけでなく、上陸地が松浦市付近ではなく、宗像市付近であることの傍証にもなる事に気が付きました。
という事で、次回は、九州への上陸地に関する話です。
ではでは