『魏志倭人伝』中の末廬国までの海路について考えた話(その3)です
前回の記事
前回の記事で、『魏志倭人伝』に記述が有る、邪馬台国までの旅程の中で、特に九州までの海路の表現内容について考えました。
結論は次のようなものでした。
「出発時に目的地が視認出来ないときは、方位も記す」
前回の記事の終わりで書いたように、この結論を基に、九州への上陸地点を考えてみようというのが、今回の話になります。
壱岐と一支国
先ずは、壱岐周辺の地図を見てもらいたいと思います。
引用元:Googleマップ(赤丸と赤矢印は筆者が追記)
現在の壱岐市における行政の中心は、市庁舎などの有る旧郷ノ浦町の辺りという事になるでしょうか。
地図でいうと、壱岐市と書いてある辺りとなります。
それに対して、地図上で赤丸で示した辺りに、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模な遺跡である、原の辻遺跡があり、一支国の中心はこちらで有ったと考えられているようです。
使者の到着した場所
前回の記事で参考にしたブログ記事にも、今回の結論の情報源である、遠澤葆(2003)『魏志倭人伝の航海術と邪馬台国』成山堂書店、から次のように引用されています。
壱岐から末盧国への発航地について、遠澤葆は、「帯方郡使船は勝本から壱岐島の東岸を陸岸伝いに南下し、内海湾に入り、その奥の幡鉾川河口付近に停泊した」という。この付近の地形と幡鉾川の約1.5キロ上流にある壱岐島で最も大きな集落である原の辻遺跡の存在から、「ここでの長期停泊には全く問題がなかった」という。だから、帯方郡使船は、幡鉾川河口付近から出航した、という。
引用元:遠澤葆「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」を読んで(2) | 気まぐれな梟
という事で、魏からの使者は、原の辻遺跡付近に到着したと考えることが出来そうです。
使者の出発した場所
そうであるならば、末廬国へ向かって出発したのもここからという事になります。
さてその場合、地図を見てもらえば分かる様に、赤丸のすぐ東に有る内海湾から出発する事になります。
その時に、内海湾は東に向かって開いており、南の松浦市の方向は小高くなっているために、九州本土を視認することは出来ないと思われます。
その結果、赤い矢印で示したように、視認できるのは東の宗像市付近のみという事になります。
この事と、末廬国への旅程の記述に方位の無かった点を考え合わせると、目的地は宗像市付近だったという事になります。
距離的にも問題ない
勿論、こう考えれば、松浦市付近までの距離としては長すぎると考えられる、1000余里という距離も、以前の記事でも書いたように、説明がつくことになります。
壱岐から宗像市付近までの距離は、約70キロであり、70数メートルとされる短里が使われていたと考えれば、概ね一致します。
まとめると
壱岐(一支国)の出発地である内海湾から、東の方向に視認できる宗像市付近つまり末廬国までの距離が、1000余里だったのです。
その結果として記述は、「海を渡る、1000余里、末廬国に至る」となった訳です。
結構いいところをついていると思うのですが、いかがなものでしょうか。
このコロナ禍が終わったら、確認のために、北部九州に行きたくなってきました。
ではでは