日本と中国の歴史上の統治体制について考えた話です
律令制は中国のみ?
日本の律令制ですが、勿論中国のそれを手本としてます。
具体的には、唐の時代の制度を参考とした様です。
少し話は逸れますが、唐としては、皇帝が制定したものが律令であり、周辺の国家に制定させなかったらしいです。
明確に律令制が施行されたことがわかっているのは、日本だけのようです。
どうも許可を得ていたわけでは無いようです。
さすがに中華思想の本家本元の面目躍如と言ったところでしょうか。
日本の律令制の特徴
その日本の律令制ですが、唐のものをそのまま取り入れたわけではありませんでした。
色々と日本の事情に合わせて変更された部分が存在します。
中でも、決定的な違いと考えられるのが、皇帝と天皇の権限です。
中国の皇帝は、何度もこのブログに出て来ましたが、天の天帝から命を受けて地上を統べるという建前になっていますので、人間が作った律令を越える存在という事になっています。
つまり、場合によっては、皇帝の命は律令を超越するという事です。
これに対して、日本においては、太政官が発議して、太政官・議政官の合議で上奏する形式で、天皇の権力が制限されていました。
これは、それ以前の大和政権が、有力氏族の連合体的な性格であった事を反映しているとも考えられているようです。
この事は、結局日本には科挙の制度が導入されなかったことにも、見て取れそうです。
江戸時代まで続くことに
いずれにしても、この事が、それ以降の藤原氏を始めとする権力を巡る構造をもたらしたと考えられそうです。
その結果、天皇を中心とした権力の枠組みが続くことになり、戦国時代に天下を目指すものが、京都を目指す原因になった、と考えたのが前回の記事でした。
その後の、豊臣政権は、関白になったのでそのものずばりですし、徳川政権も、征夷大将軍となって幕府を開いたという事で、江戸時代もそうだったという事になります。
結局千年以上の長きに渡って続いた訳ですが、上記のような事に関して調べているうちに、中国が、その原因とまでは言いませんが、遠因ぐらいになったのではないかと思いつきました。
中国も続いていた
改めて考えてみると、中国は、その律令制を参考にした唐どころか、それ以前の歴代の王朝から始まって、最終的には清王朝に至るまでの長きに渡って、常に、皇帝がいて、統治を行うという形式でした。
天命による易姓革命という大枠に変化が無かったとも言えるわけです。
勿論、日本が常に中国の制度を後追いしてきたわけではありませんが、さりとて関係が全く無かったわけでもないでしょう。
常にその動向を気にかけていたはずです。
その中国が、統治体制の大枠に関してほぼ変化が無かったという事は、それを基にした日本の制度を変化させるきっかけのようなものが、もたらされることが無かったとも言えます。
これが、日本でも長きに渡って、天皇を中心とした体制が続いた、隠れた遠因なのでは無いでしょうか。
やはり、なんだかんだと言っても、この地域において、中国の影響を無視した歴史は考えられないという事でしょうか。
ではでは