日本と中国の差について考えた話です
中国との関係
以前の記事で、日本で長きに渡って、天皇を中心とするシステムが機能してきた背景には、その元となった中国で、皇帝による支配という形態が変わることなく続いたのが遠因では無いかと考えました。
近代、現代の中国の状況と、日本との関係を考えると、この点に関しては、そこまで言うのはどうかなという気もするかもしれません。
しかし、近世までの日本にとっては、中国は、現代の我々が考える以上に、影響力が有ったと思うのです。
シンクロニシティ
前回の記事を書いた後に、やはり中国の歴史は凄いと思わせる番組を見ました。
まさに「シンクロニシティ」とでもいうような感じで、こういったタイミングで、関係する情報に行き当たるのは、最近良くあるのですが、不思議な感じです。
番組は、中国紀行で、歴史上の場所を尋ねるといった感じのものでした。
その中で出て来たのが、長平でした。
長平の戦い
その昔、中国に趙という国が有り、その名も趙括という武将がいました。
名将といわれた趙奢の子で、幼い時から兵学書に学び、その知識は、父の趙奢を論破するほどだったようです。
その趙括は、長平の戦いと呼ばれる戦いで戦死してしまいます、その時趙が失った兵力は、なんと40万人と伝わります。
さすがに40万人というのは、中国お得意の「白髪三千丈」の類だと思いますが、趙が一敗地にまみれたのは確かなようです。
そして趙括は、理論だけで実践がまるでだめだったことから、「紙上に兵を談ず」という故事成語を残すことになりました。
さて、この長平の戦いの相手は、秦国でした。
秦と言っても、かの始皇帝ではなく、その3代前の昭襄王の時代で、紀元前260年の事になります。
つまり、中国では、紀元前260年の時点で、すでに趙括のような知識だけの人物を生み出すほど、兵法書の類が存在していたという事です。
彼我の差
これは、日本から見れば、驚くべきことと言わざるを得ません。
この時点から、500年程経って、やっと日本は邪馬台国の時代という事になります。
その時点でも、まだ文字による記録は、日本には存在していません。
しかも、長平の戦いの時点で、春秋戦国時代は500年程続いています。
勿論それ以前の周の時代には、すでに文字が使われていました。
文字という一点だけを見ても、中国と日本には、その時点で1000年以上の差があった事になります。
その後の日本の歴史は、この彼我の差をいかに埋め、克服していくかが課題だったとも言えると思うのです。
少なくとも、常に中国の存在を感じていたに違いないのです。
従って、その中国の統治システムの変化にも、現代の我々以上に、敏感だったと思われるのです。
そう考えると、唐入りを構想した秀吉は、やはり別格という事でしょうか。
ではでは