仏教について考えてみた話(2)です。
「悟り」と修行
前回の記事で、「悟り」とブラックホールの類似性から、各宗派で行われている修行について調べることに拠り、「悟り」について何らかの情報が得られるのではないかと考えました。
修行が「悟り」を目指しているのならば、これらから帰納的に考えれば、「悟り」そのものではないにしても、何か分かるかもしれないという訳です。
具体的にいくつか、見てみたいと思います。
静から動まで
先ず、修行といっても色々ある訳ですが、最も知られているのは、禅でしょか。
禅では、これも良く知られているように、基本的に坐禅を行う事になります。
引用元:坐禅 - Wikipedia
あくまでも、静という事になります。
坐禅が静ならば、その対極とも言えるのが、天台宗の、千日回峰行でしょうか。
約1000日間に渡って、夜間に山中を、真言を唱えながら、毎日30キロ以上走るという、命がけの荒行です。
途中で断念するときは、持参の短刀で自害しなければならないのだそうです。
引用元:比叡山の修行 | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
その中間という訳では無いですが、密教系の護摩行というのも比較的知られているかと思います。
護摩壇に火を点じ、真言を唱えながら、火中に供物や、護摩木を投じて行うものです。
動作としては、基本的に坐ったままで、専ら手を動かすという事になります。
引用元:護摩 - Wikipedia
修行の共通点
以上のように、静から動まで様々な修行の方法があることから、肉体的に鍛えることが必須では無さそうだという事が分かります。
そうなると、精神的な何かだという事でしょうか。
坐禅、特に曹洞系では、精神的な面から考えると、瞑想を同時に行うという点が挙げられます。
瞑想の入門編では、呼吸に集中するようにといった指導がなされます。
これについては、呼吸に集中することに拠り、その他の事を考えないようにすることを目指す、と言うような説明がなされます。
それに対して、臨済系では、坐禅と共に公案について考えるという事を行います。
公案は、論理的に答えを見出すことが困難な設問で、例えば代表的な「隻手の声」は
「両手を叩くと音がする。では片手の音とはなんだろう。」
という、分かったような分からないようなものになります。
修行者は、このような公案を与えられ、それに関して考え続けることを求めらます。
これら二つの方法の共通点は、曹洞系では呼吸、臨済系では公案という、各々集中する対象を限定して、その他の事を考えないようにしている点であると考えられます。
加えて、肉体的には、結跏趺坐という姿勢を強いることに拠り、肉体的な事は考えなくても済むようにしているとも考えられます。
これを、千日回峰行と護摩行に当てはめてみると、どうでしょうか。
先ず、肉体的には、千日回峰行では走ること、護摩行では護摩木を投じる事と、限定した動きを強いていると考える事が出来ます。
精神的には、いずれも、真言を唱えながら行う形になっており、その事に集中するようなっていると考えられます。
一見その有り様が大きく異なるように見える修行の間で、肉体的には、一定の行動に限定し、注意が向かうことを防ぎ、精神的には、一定の対象に集中することに拠り、思考を限定することが、共通点として浮かび上がってきました。
これで、「悟り」に至れるのでしょうか。
次回は、今回複数の修行から見出した共通点が、お釈迦様の示された教えとの間でどのような関係にあるのか、はたまた関係はないのかを、考えてみたいと思います。
ではでは