仏教について考えてみた話(5)です。
お釈迦様の悟り
前回の記事で、「悟り」にいたるのに、修行だけではなく、何らかの形のきっかけが必要なのではないかと言う話をしました。
前回の記事を上げてから気付いたんですけど、これ、お釈迦様も同じじゃないかなと。
出家をしたお釈迦様は、その後6年にわたって苦行を行ったのですが、苦行で体を痛めつけても、真理にいたることは無いと思い至りました。
それで、苦行を中止して、休息しているときに、村娘から乳がゆをもらい、体力を回復する(その娘の名前をスジャータと言い、あのコーヒーフレッシュは、ここから商品名を取ったそうです)といった事などが有ったりした後、最終的には、ブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、「悟り」に至ります。
その「悟り」に至ったのは、明け方の明けの明星が輝き始めたころだとされています。
話によっては、明けの明星が瞬くのを見て、としているものも有ります。
きっかけが必要だが
つまり、お釈迦様の場合も、瞑想を行っている中で、明けの明星が瞬くのに気付くというきっかけが、「悟り」へと至るのに必要だったという事では無いでしょうか。
とはいえ、そのきっかけだけでは「悟り」に達することが出来ないのもまた確かです。
例えば、前回出て来た阿難陀のように、寝床に横になろうとするだけでいいのならば、そこらじゅうで「悟り」に達する人が続出しそうですよね。
その他の人の「悟り」に至る状況を見ても明らかなように、やはりそこには、修行という、前段階が必要である様に思われます。
修行による正定、正念の状態が必要で、その状態にある時に何らかのきっかけが起こることが、重要な条件のように思われる訳です。
結局何が起こったのか
そうだとして、その瞬間何が起こっているのでしょうか。
その境地に達していない身には、正確には分かり様がないわけですが、可能性として一つ考えらえるのは、無思考と言う状態になったのではないかという事です。
正定の集中の中で、正念の気づきを行っている時、正定と正念の目指すものからして、思考は極限まで少なくなっていると考えられます。
そこに、何らかのきっかけが生じ、そちらに意識が移る瞬間に、極限まで少なくなっていた思考が、全く無くなる一瞬が生じたのではないでしょうか。
その事が「悟り」を認識させることになるのではないか。
そのため、普通に頭が働いているときに、同じようなきっかけが有っても、思考の途切れる瞬間は生じ無いため、「悟り」に至ることは出来ないというように考える事も出来そうです。
思考の全く無い瞬間に関することは、考えそのものが無い訳ですから、思考の他者への表現形式とも言える言語では表現出来ない、すなわち「不立文字」と言う事では無いでしょうか。
一応結論めいたところまで来ましたので、次回で一度まとめてみたいと思います。
ではでは