横から失礼します

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いまさらながら、仏教について(4)

 仏教について考えてみた話(4)です。

 

 

阿難陀

 お釈迦様の弟子の中で、特に優れた10人の人たちが 釈迦の十大弟子 と呼ばれています。

その中の一人に、阿難陀(あーなんだ)という人がいます。
お釈迦様がお亡くなりになるまでの25年間、侍者を務め、身の回りのお世話もしていたそうです。
その事も有ってか、お釈迦様の説教を最も多く聞き、しかも記憶力も良かったため、「多聞第一」と呼ばれていたようです。

経文の最初によく出て来る、「如是我聞」という言葉が有りますが、「かくのごとく、我聞けり」という意味で、この我というのが、多くの場合、阿難陀だそうです。
経文を作る時に、阿難陀の記憶を基に多くのものが作られたために、このようになっているようです

ただ、それほどまでにしても、お釈迦様が亡くなった時点で、阿難陀は「悟り」を開くまでには至っていませんでした。

阿難陀の悟りから判ること

 そんな中、お釈迦様の教えを纏めようという事(第1回の経典結集)になった時に、「多聞第一」の彼が必要ではあるが、「悟り」を開いていない者の参加はどうか、という事になったらしいです。
そこで、阿難陀は、何とか結集までに「悟り」に至るべく、より一層修行に打ち込みます。
しかし、なかなか「悟り」には至らず、なんと結集の前日も修行を続けたのです。
しかし、結局疲れ切って、その日は断念し、眠るために寝台に横になろうとした瞬間に、「悟り」を開いたとされています。

 阿難陀の話から、二つの事が見て取れます。
先ず、お釈迦様の教え、今で言えばお経という事になりますが、をいくら勉強して暗記までしても、それだけでは「悟り」には至れないという事がひとつ。

次に、修行を行うだけでは、「悟り」に至らないというのが、二つ目の点となります。
阿難陀も、その日の修行をやめて、寝ようとした瞬間に悟った訳ですからね。

様々な悟り方

 こういった、「悟り」を開いた時の状況に関しては、その他にもいくつか伝えられています。

例えば、アニメの「一休さん」でおなじみの、一休宗純は、琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「悟り」を開いたそうです。

その他にも、掃除をしていて、箒ではじいた小石の立てた音でとか、夜に谷川の水の音を聞いてとか、梅の香りを嗅いだ途端にとか、色々な状況が伝えられています。

中には、あまりにも「悟り」を開けなくて、絶望のあまり首を括って死のうとした瞬間に悟ったなんていう、壮絶なものまであります。

これら全てに共通するのは、修行そのものでは「悟り」に達していないという事です。

横になろうとしてとか、カラスの鳴くのを聞いてとか、明らかに修行そのものとは違う事をきっかけとして、「悟り」に達しているように思えます。


 次回は、悟りに至るきっかけと修行の関係について考えてみたいと思います。


ではでは