横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

いまさらながら、仏教について(1)

 仏教について考えてみた話(1)です。

 

 

仏教が気になっています

 自分では、基本的には不可知論者に近いと思っているのですが、人生も残りの時間の方が少なくなってくると、若い頃は信じる気にならなかった宗教も、色々と気になってきました。

そうなると、常に身近にあることから、どうしても仏教に目が行き易いという事になります。

とは言っても、どうも身の回りにあるいわゆる大乗的と言っていいのか、日本的なと言っていいのかは分かりませんが、すべての衆生が救われるというのは、どうもという感じが拭えません。

お釈迦様が「悟り」を開かれてから、2500年程経っている訳ですが、私自身の日頃の行いもあってか、救われているようには思えないですからね。
まあ、これまでの事を差し置いて、救ってほしいというのも、虫が良すぎるという気もしますしね。

それでも、2500年も続いている訳で、そこには何かあるんじゃないかと思う訳です。

仏の教えは「悟り」

 そもそも、仏教は、仏(ほとけ)の教(おしえ)と書くように、元々は「悟り」を開いて仏になったお釈迦様の、「悟り」に至る方法に関する教えだと考えていいでしょう。

それが、2500年経つ間に様々な宗派に分かれていって今にいたっているのですが、全ての宗派に共通すると言ってもいい最終的な目標は、やはり、「悟り」だというところが、興味深いです。

ここで、一つお断りを。
「悟り」は不立文字だと言われるように、言葉で定義出来ない事になっているので、その指し示すものに関しては、様々な考えが有り、かつ争点となっています。
ここでは、お釈迦様が2500年前に到達したと伝えられている、境地、感覚といったもの(不立文字ということなので、考えではないと考えられます)を指して、「悟り」という表現を使いたいと思います。

その「悟り」ですが、不立文字と言われても、はいそうですかという訳にもいかず、本当にあるんですかね、と言うのが正直なところです。

しかし、何度も書きますが、2500年もの間、それも細々どころでは無く、続いてきたわけですから、何かあるかもしれないと考えざるを得ません。
過去「悟り」に至るべく取り組んだ多くの人達も、闇雲にそれが有ると信じた訳では無いと思うのです。

周辺から攻める

 これ、よく考えてみると、一応理論的には有るらしいことは分かってはいるけども、直接確認は出来ないという事から、ブラックホールのようなものだと思うんですよね。

で、ブラックホールの場合どうなっているかと言うと、近くにある星の動きとか、ブラックホールから出て来る電磁波とかの、そのものずばりでは無い、周辺の情報からその存在について考えている訳です。

では、「悟り」で、同じように周辺から攻めることは出来ないでしょうか。

色々調べている中で、ひとつ思いつきました。
それは、修行の方法です。

多様に分かれている各宗派には、これまた多様な修行方法が存在しています。
チョット考えただけも、座禅、護摩行、千日回峰行などバラエティに富んでいます。

全ての修行が「悟り」を目指しているのならば、これらから帰納的に考えれば、「悟り」そのものではないにしても、何か分かることが期待される、という事になりそうです。


という訳で、次回は、多様な修行方法から、帰納的に考えてみたいと思います。


ではでは