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いまさらながら、仏教について(3)

 仏教について考えてみた話(3)です。

 

 

初転法輪

 お釈迦様が、「悟り」を開かれてから、初めてその教義について説かれたわけですが、その事を初転法輪(しょてんぽうりん)と呼んでいます。

その初転法輪の中で、説かれたとされているのが、四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

ここに、お釈迦様の教え、すなわち仏教の中核的な考えがあると考えられているようです。

以下、この二つを、私のとりあえずの理解で説明すると次のようになります。

四諦

苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つからなります。

先ず、苦諦(くたい)ですが、この世は全て苦であるという事です。
全てという事は、生きていること自体も苦という事で、それを示す中で、あの四苦八苦の考えが出て来ることになります。

次の、集諦(じったい)は、その苦の原因を示したものとなります。

滅諦(めったい)は、苦の原因を滅することで「悟る」ことに拠り、その結果至る境地を示したもの。
一瞬アレッと思うのですが、「悟り」そのものについては、具体的には示していないようです。

最後の道諦(どうたい)で、滅諦に至る道を示します。
その内容が八正道である、という立て付けになっています。

八正道

 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つをいいます。

先ず、正見(しょうけん)ですが、文字通り正しく見るですが、見る対象は前述の四諦の事で、ここで言う見るは、知るという意味に近いようです。
しかし、四諦の一つの滅諦に至る道が八正道だったはずです。
実は、他の七つの正道によって、正見に至るという関係になっているようで、正見に至ることが「悟る」ことだというように、私は解釈しています。

次の五つについては、大体以下のような意味になります。

正思惟(しょうしい):欲、憎しみ、怒りを避け、正しく考え判断する。
正語(しょうご):嘘、陰口、無駄話、粗暴な言葉を避け、正しい言葉遣いをする。
正業(しょうごう):殺生、盗み、性行為を避け、正しい行いをする。
正命(しょうみょう):道徳に反する職業や仕事は避け、正しい生活をする。
正精進(しょうしょうじん):不善を断じ、善を行い、正しい努力をする。

これらは、お釈迦様が「悟り」に至る修行をする前提として必要と考えた、生き方を示していると言っていいでしょう。

そうは言っても、一般人が日常生活で、これを行うのは、出来ないとは言いませんが、非常に困難でしょう。

それに対する、長年にわたる模索の結果が、現在の寺院を中心とする、出家のシステムではないでしょうか。
寺院と言う閉ざされた生活空間で、戒律を守ることに拠り、上記の五つの正道が行われるようなシステムが作られてきたという事だと思います。

残り二つは、次のようになります。

正念(しょうねん):正しく気づくこと。
正定(しょうじょう):正しく集中すること。

どうやら、これが「悟り」に至る実践という事のようです。

正念、正定と修行

 この二つと、前回の記事で考えた、修行の共通点との関係はどうでしょうか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

先ず、正定の正しく集中するというのは、そのものズバリといってもいいでしょう。
何れの修行も、いかに集中するかに腐心しているように見えます。

問題は正念です。
正しく気づくとはどういう事でしょうか。
私の解釈では、どうやら、自然に湧き上がってくる考え(これを煩悩と言うようです)に気づくといった意味のようです。
であるならば、修行の中で、集中しようとする訳ですが、その中でも湧き上がってくる考えがあるはずで、それに気づくという事でしょうか。
この辺りは、私の中で、今のところ曖昧模糊としています。

若干、理解の至らないところはありますが、修行は、この二つの正道を実践するために作り上げられてきた方法論と言えるようです。

で、その先に「悟り」があり、正見に至り、四諦を正しく見るという流れになる訳です。


 が、色々調べてみると、どうも、正念、正定、すなわち単に修行を実践するだけでは「悟り」に至らないようなのです。
そのあたりを次回書きたいと思います。


ではでは