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邪馬台国東遷説と日本書紀(前編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで話をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(前編)です。

邪馬台国東遷説については、下の記事を、ご覧ください。

yokositu.hatenablog.com

 

 

紀元2600年

 1940年( 昭和15年)に神武天皇即位紀元2600年を祝って記念行事が行われました。
これは、「日本書紀」の各天皇の即位年を順に遡ることにより、初代神武天皇の即位が、西暦紀元前660年となり、そこから2600年経ったことを記念したものです。

西暦紀元前660年は、中国ではの時代です。
つまり、日本は中国の周と同時代から続く正当な王朝で有ることを示して、朝貢ではなく、対等な関係になることを目指すことが、「日本書紀」が書かれた一つの理由だったと考えられます。

そのため、「日本書紀」は漢文で書かれているのでしょう。

なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのか

 邪馬台国が東遷して大和政権になったと考えたときに、その正史たる日本書紀」に、なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのかが、最大の問題点と言えるでしょう。

それには、上記の「日本書紀」が作られた意図が関係していると、考えています。

中国と対等な関係を目指す意図で作られた歴史書に、五胡十六国の混乱を避けるために、亡命者と共に東遷した国と、その初代女王の話は入れる訳にはいかなかった訳です。

天孫降臨神話

 とは言っても、当時の人々は、大和王朝が九州からやって来たことを、多かれ少なかれ知っている訳です。

一方で、「日本書紀」は国内に向けての、政権としての公式見解でもあった訳です。
その公式見解を作るにあたって、東遷の事実を、無かったことには出来なかったと思われます。

そのために導入されたのが、天孫降臨神話だと考えられます。

九州時代を全て神話とした上で、その神々の子孫である神武天皇が東征して、今の王朝を開いたことにした訳です。

神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思います。
その方が、九州には、高千穂などの伝承地がある訳で、それなりの説得力を付与することが出来、好都合だったのだと考えられます。


 天照大神卑弥呼だというのは、考えすぎではないかと思います。

 

 ではでは

 

 

纏向遺跡は邪馬台国か

 纏向遺跡邪馬台国の関係を考えてみた話です。

 

 

纏向遺跡とは

 纏向遺跡は、奈良県桜井市にある遺跡で、

  弥生時代末期から古墳時代前期にかけてのものである。
  東西約2キロ、南北約1.5キロという、当該時期では類をみない規模である。
  遺跡内に箸墓古墳があり、卑弥呼の墓の可能性がある。
  祭祀用具が多く出土。
  他地域で作られた土器が多く出土する。
  軸線と方位を揃えた3棟の掘立柱建物を代表とする、多数の建物群。

等から、邪馬台国ではないかと考えられています。

東遷した邪馬台国なのか

 邪馬台国東遷説を踏まえて、纏向遺跡邪馬台国なのか、考えてみました。

先ず前提として、東遷は、卑弥呼の死後4世紀に起こったと考えており、卑弥呼の墓が畿内に有ることは考えられませんので、箸墓古墳卑弥呼の墓ではありえないことになります。

その上で最初は、東遷した邪馬台国が、畿内に作った国の跡が、纏向遺跡だと考えました。

しかし、良く調べると、それには次のような矛盾が有ることが分かってきました。

纏向遺跡が存続した、弥生時代末期から古墳時代前期というのが、より正確には、3世紀初めから4世紀中頃までのことであり、4世紀と考えている東遷以前から存在し、東遷中に無くなったことになります。

つまり、纏向遺跡は東遷した邪馬台国ではあり得ません

無関係なのか

 しかし、纏向は、その規模、建物群、広範囲な地域からの土器、多くの祭祀道具などから、当時の畿内における、宗教的色彩の強い中心的存在だと考えられ、東遷するにあたって無視はできなかったでしょう。

それどころか、ここを押さえることが重要だと考えたと思います。

ということで、纏向遺跡は、4世紀に入り、東遷してきた邪馬台国に征服されたと考えます。

東遷してきた邪馬台国はどこに

では、4世紀中頃以降に、使用された痕跡が見られないことを、どう考えるかということですが。
他宗教の中心的存在であったところを使用することを、避けたという事ではないでしょうか。

そうは言っても、纏向周辺は、その当時の畿内において中心となる地域であったと考えられる訳で、新たな都を築くに都合のいい場所でもあるはずです。

といったことを考えながら、それらしいところは無いかと探してみたところ、ありました。
日本書紀に、東征を行った天皇として記されている神武天皇の、宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原神宮です。
纏向遺跡から南西に10キロ弱の位置です。
橿原神宮のあたりが、東遷した邪馬台国だったと思います。


 纏向遺跡から近い橿原神宮周辺が、神武天皇の宮の伝承地であった事は、決して偶然ではないと思います。


 ではでは

広開土王碑における倭と、倭の五王の事績

 邪馬台国東遷説から見て、広開土王碑における倭と、倭の五王の事績を解釈してみた話です。

 

 

東遷が完了して

 以前の記事で、いわゆる謎の4世紀に、邪馬台国が九州から畿内に東遷したと考えられると書きました。

yokositu.hatenablog.com

東遷が終わり、大陸からの脅威に対する備えが出来た時点で、政権中枢部は、次のように考えたのだと思います。

朝鮮半島北部における覇権を、奪還すべきだと。

これに、朝鮮半島北部からの亡命者の思いが深く関与していたことは、想像に難くありません。

広開土王碑における倭

 それ以降の行動についての記録が、高句麗の広開土王碑に有る、倭に関する記述になると考えます。

解釈に諸説ある部分は出来るだけ避けて、記述に沿って記します。(年号から始まる太字の部分が、広開土王碑の内容です)

391年 倭が来る
朝鮮半島北部における覇権を、奪うにしても、直接攻めては、周辺国から挟撃される恐れもあることから、先ず朝鮮半島南部に橋頭堡を築いたと考えられます。
小国家群からなる加羅に上陸し、築いたのが任那だと思います。

399年 百済は、倭と和通した
    新羅から、倭人の襲撃に対して、高句麗に救援の要請あり。
400年 高句麗5万の兵で新羅を救援し、倭を任那加羅まで追撃する。
    そのすきに、安羅軍が新羅の都を占領する。
任那を足掛りに、百済新羅を勢力範囲に収めたということでしょう。
安羅は、加羅の一国と考えられています。

404年 倭が帯方地方に侵入するも、撃退。
後背の憂いを無くした上で、満を持して朝鮮半島北部に進行するも、あえなく敗退の憂き目を見たという事でしょうか。

倭の五王の事績

 朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのか、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしたのだと思われます。

そのことを示しているのが、中国の歴史書宋書にある、倭の五王による朝貢の記事だと考えます。

先ず、ここでいう宋は、魏、西晋東晋と続いてきた王朝を継承した国となります。
この宋に朝貢することにより、魏に朝貢した卑弥呼から連なる政権ということでの、正当性を確立することが出来ます。

一人目の王の最初の朝貢は421年(413年という説も)です。

次に、朝鮮半島南部での権益を守る件に関しては、2人目の朝貢時に、自ら「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称して、正式の任命を求めたことに、端的に表れていると思います。

なお、この件に関しては、最後の王に対して、「使持節都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王と任命されたことに見られるように、一定の成果は上げましたが、最後まで百済に関しては認められなかったのは、面白いところです。


 以上は、朝鮮半島に進出を始めた391年から、王が任命を受けた478年の間の出来事になります。


  ではでは


 

 

卑弥呼の墓はここだ

 今回は、邪馬台国の位置と並んで議論の的となる、女王卑弥呼の墓についての話です。

 

 邪馬台国は宇佐にあったので

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だったのではないか、邪馬台国はその宇佐にあったのではないか、という話をしました。

yokositu.hatenablog.com

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であるならば、その卑弥呼が亡くなった場合、宇佐の地に葬られた、と考えるのが普通かと思われます。

つまり、卑弥呼の墓は宇佐に有る、という事だと思います。

宇佐のどこなのか

 上記記事で書いたように、道鏡事件において、天皇後継問題にまで影響力があった、宇佐神宮に関係がある場所と考えられます、
逆に、卑弥呼の墓と関りがあったから、影響力があったと言えるかもしれません。

実は、関係どころでは無く、宇佐神宮の本殿は小高い亀山山頂にあるのですが、この亀山の山頂部分が古墳だと言われているようです。

山頂部の径百余歩に相当する部分を造成して墓としたと考えれば、「魏志倭人伝」の記述とも矛盾しません。

つまり、卑弥呼の墓は、宇佐神宮に有る、という事だと思います。

宇佐神宮卑弥呼

 現在、亀山山頂には、宇佐神宮の上宮があり、次の三神が祀られています。

 一之御殿:応神天皇 (おうじんてんのう)  725年造営
 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ)   729年造営
 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)   823年造営

応神天皇神功皇后は、日本書紀に記載がある人物です。
比売大神は、現在、宗像三女神とされていますが、その正体についてはよく分かっておらず、祀られている地域によっても違いがあるようです。

この比売大神が、卑弥呼だと考えます。
卑弥呼が亡くなってから、約500年の間に、比売大神として信仰されるようになったのだと思います。

さらに日本書紀によれば、神功皇后は、熊襲征伐の後、朝鮮半島に赴き、帰国後、九州の地で、応神天皇を生みます。
つまり、いずれも九州に関係のある人物です。

これらの事と、日本書紀の成立が720年である事、さらに3御殿の造営時期を合わせて考えると、宇佐神宮は、比売大神の信仰を基に、日本書紀の内容を合わせる形で、現在の形に成ったと思われます。

つまり、大和政権の始祖とも言うべき卑弥呼が祀られていることにより、道鏡事件で見られたような、影響力があったという事です。


 改修工事の時に石棺を見た、という話もあるようなので、中から金印でも出てくると面白いんですけどね。


  ではでは

 

邪馬台国はここに建てられた

 以前の記事で、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だった、という話をしました。

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 今回は、その中で予告した、邪馬台国の位置に関する話です。

卑弥呼共立の条件と同じ

 前出の記事のなかで、卑弥呼共立の条件として、
「争いを収めるために共立するのに、武力や政治力を基準にしても、到底納得が得られる訳がありません。
宗教的中心を背景とした人物であれば、表向き中立性もあり、賛同が得られやすかったと、考えられます。」
という話をしました。
 
これは、邪馬台国の建てられた位置にも、当てはまると思うのです。
何処に建てても、アブハチ取らずで、下手をすれば再び紛争の種になりかねないと思うんですよね。

そこで、賛同の得られやすいという事で、宗教的中心に近いところに建てたのではないでしょうか。
つまり、邪馬台国は宇佐に有ったという事になります。

魏志倭人伝の記述

 さて、建立の状況から、場所を宇佐とした訳ですが、「魏志倭人伝」の記述と整合性がなければ、単なる一人相撲になってしまうので、検討してみました。

以下に、「魏志倭人伝」に書かれた、邪馬台国までの旅程を示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、投馬国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、陸行、???里、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

ただし、投馬国と邪馬台国に至る旅程は、下記の記事で考察した、修正を採用しています。
また、「方角」「???」は、この部分に方角、数字がそれぞれ入るが、具体的に決められないという意味です。 

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 地図上で考えると

先ず、狗邪韓国は朝鮮半島南部の対馬対岸対馬国対馬一大国は壱岐と考えれば、末廬国で九州に上陸という事になります。

残りの旅程を、地図と見比べた結果、壱岐から東に海を渡り現在の宗像市付近に上陸したと考えると、うまく当てはまりそうだと気が付きました。
実際に、地図に当てはめた結果がこれです。

グーグルマップのルート検索の機能を使っているので、指定し易いランドマークを繋いだものになっています。
以下の話では、大体そのあたりかな、ぐらいで考えてください。

先ず、末廬国から不弥国までは、全て陸行で、

宗像大社(末廬国)→東南→小竹駅(伊都国)→東南→香春駅(奴国)→東→新田原駅(不弥国)

と、旅程に沿っています。

その後の、投馬国経由邪馬台国の旅程は、水行→水行→陸行(方角は不明)ですが、地図上はルート検索のため陸上となっている柳ヶ浦駅までを、周防灘の沿岸沿いを水行したと考えれば、

新田原駅(不弥国)→水行→中津駅(投馬国)→水行→柳ヶ浦駅→陸行→宇佐神宮邪馬台国

と、符合します。

距離に関しても、桁違いにずれている、という事は無いと思います。


以上、邪馬台国宇佐市で、大きな破綻は無いかなと思っているんですが。


  ではでは

道鏡事件から考える卑弥呼

 道鏡事件の気になる点について考えたら、卑弥呼に行き着いた、という話です。

 

道鏡事件とは

 先ず、道鏡事件について、極簡単に説明すると。

奈良時代、8世紀後半に、道鏡とういう僧侶が、時の孝謙上皇の病気を治したことをきっかけに、上皇の寵愛を受け、出世します。
宇佐八幡宮の神託により、天皇になりかけるが、同宮の再度の神託で阻まれた、という事件です。

道鏡事件の気になる点は

 この話の中で、最も気になる点は、なぜ、一介の僧侶が天皇になるかどうかの重大事に関して、宇佐八幡宮の神託が、重要な役割を果たしたのかという事です。

宇佐八幡宮は、現在の大分県宇佐市に有る神社です。
なぜ、遠く九州に有る神社の神託が、と思う訳です。
もっと近くに、それこそ伊勢神宮とか有るにもかかわらずにです。

実際、再度の神託のために派遣を命じられた人物が、長旅に耐えられぬからと、その弟を替わりに派遣した、といった話も残っています。

邪馬台国時代からつづく関係と考えれば

 しかしこれも、九州に有った邪馬台国が、東遷して大和政権になったと考えている立場からすると、当然とも言えるわけです。
九州に有った時代から、関わりがあったと考えれば、納得出来ます。
しかも、天皇の継承に影響するほどの関係が。

では、東遷して、畿内に政権が移った後も、強い影響力が残る関係とは、どのようなものでしょうか。
例えば、権力構造のなかで、有力な集団だったとしましょう。
九州に残ったとすれば、そんな遠くから影響力を行使できるとは、思えません。
一緒に東遷したのならば、九州までお伺いを建てる必要はありません。

つまり、単なる力関係ではないと考えられます。

卑弥呼は、宇佐の巫女的存在だった

 その関係性は、宇佐八幡宮が関係していることからも、宗教的な背景があったと考えられます。

後に、宇佐八幡宮が建立される宇佐は、弥生時代における、ある種の宗教的中心の一つだったのでしょう。
そして、卑弥呼は、宇佐の巫女的な存在だったのではないかと思います。
その卑弥呼が、邪馬台国の女王として共立された。

そのため、奈良時代宇佐八幡宮にも、その関係性が継承され、天皇の後継問題にも影響力があったのではないでしょうか。

魏志倭人伝の記述からも

 卑弥呼が、宗教的中心の巫女的存在だったのでないかという考えは、魏志倭人伝の記述からも、ある程度類推できます。

先ず、卑弥呼は、鬼道を行ったとあります。
これは、彼女が何らかの宗教的な行為をし、それを中国からの使者が、鬼道と呼んだのだと思います。

次に、倭国で長期間の争いがあり、女子を共立して王とし、収めた点。
争いを収めるために共立するのに、武力や政治力を基準にしても、到底納得が得られる訳がありません。
宗教的中心を背景とした人物であれば、表向き中立性もあり、賛同が得られやすかったと、考えられます。


 という訳で、道鏡事件から、卑弥呼は宇佐の巫女的存在だった、という話に行き着きました。
実は、同時に、邪馬台国の位置についても、思うところはあるのですが、長くなりましたので、またいずれという事で。


  ではでは

 

邪馬台国はどうなってしまったのか

 以前に、邪馬台国は九州に有ったと思われる、という話をしました。 

yokositu.hatenablog.com

今回は、「魏志倭人伝」以降、忽然と歴史の流れの中に消えてしまったかに思える邪馬台国が、その後どうなったのか、という話です。

当時の中国の状況

 本題に入る前に、邪馬台国のその後に大きく関係していると考えている、当時の中国の状況について話したいと思います。

邪馬台国朝貢した、を継いだ王朝が西晋です。
その西晋陳寿が、「魏志倭人伝」を書きました。
西晋も、御多分に漏れず、代を重ねるうちに徳を失い、国力が衰退し滅亡しました。
ただし、王族の一人が中国南部に逃れて東晋を建てています。

西晋が滅亡した後の中国北部は、五胡十六国時代と呼ばれる、多くの勢力が入り乱れる、大動乱時代に突入することになります。

朝鮮半島にも影響が

 当然、西晋の支配地であった朝鮮半島北部地域も、混乱に巻き込まれることになります。

支配者層の中にも、東晋に逃れた者、侵入してきた勢力と手を結ぶ者等、いろいろある中で、交流のあった邪馬台国に亡命してきた者も、いたに違いありません。

 亡命してきた者が、当時の倭人との文化度の違いから重用され、ほどなく、重要な地位を占めることは、あり得る話だと思います。
何といっても、卑弥呼の時代から約500年前に、すでに始皇帝の「キングダム」の時代で、その差には歴然としたものがあった訳ですから。

それでも、心配事が。そして東へ

 そうなってもまだ、彼らには、心配事があったはずです。
大陸の混乱が、海を渡ってこないかという事です。
今のままでは、彼我の軍事力の差から、ひとたまりも無い、と考えたに違いありません。

そして考えたのが、東遷を行うことだったのではないでしょうか。
瀬戸内海を通して、行き来はあったはずで、東に何があるかは把握していたはずです。
そのことから、瀬戸内海の最も遠い東の端の地域に移り、大陸からの脅威に備えようとしたのだと思います。

そして、大和政権となった

 上で触れた、西晋の滅亡による五胡十六国時代の始まりは309年です。
当然、その後に亡命と東遷が起こったことになりますから、一般に言われる、謎の4世紀に、邪馬台国は九州から畿内に東遷したと考えられます。
東遷していて、朝貢どころではなかったために、中国側に記録がなく、謎の4世紀となったのだと思います。

つまり、邪馬台国は無くなったのではなく、畿内に移り、後の大和政権となったのです。


 もっとも、「邪馬台」が「大和」に変化した訳ではなく、もともと倭人が「やまと」と発音していたものを、中国人が「邪馬台」と書いただけで、変わっていないのではないかと思っているのですが。

 
  ではでは

邪馬台国への旅程改ざんの詳細

 以前に、以下の記事で、「魏志倭人伝」における、邪馬台国への旅程の改ざん疑惑について話しました。

yokositu.hatenablog.com

 今回は、その旅程改ざんの内容を、少し具体的に検討した話です。

 

 

邪馬台国への旅程

 まず、検討の対象となる、「魏志倭人伝」に記された、邪馬台国への旅程を、示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

魏志倭人伝」にヒントが

 上記の以前の記事では、旅程の最後の、南、水行、10日、陸行、1月が、いくらなんでも非常識だという事で、作者陳寿による、改ざんだと考えました。

その後、「魏志倭人伝」そのものの中に、もっと明白に、改ざんを窺わせる内容があることに、気が付きました。

それは、旅程の記載に続く部分の冒頭で、以下に原文、訳を示します。
原文
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北は、その戸数、道里の略載が可能だが、その他の旁国は遠く隔(絶)たっており、詳しく得ることができない。

これは、素直に解釈すれば、女王国即ち邪馬台国までは、その戸数と道里を、概数で記載することが可能だということですよね。
であれば、使者が作成した元の報告には、上記の旅程もすべて、道理、すなわち里数で記載されていたに違いない、という事になります。

何処を改ざんしたのか

 という事で、改ざんしたのは、

   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る

の、2つの旅程だと考えられます。

先ず、20日、10日、1月は、全て何らかの里数だったはずです。
方角の南は陳寿に、邪馬台国を南方の大国に見せかけたいとの、目的があった訳なので、改ざんの結果とも言えそうですが、もともと南だった可能性も、排除できません
それに対して、水行、陸行は、特に改ざんする理由もない訳ですので、元のままと考えられます。

という訳で、元の旅程は、

   方角、水行、???里、投馬国に至る
    ↓
   方角、水行、???里、陸行、???里、邪馬台国に至る

となります。


 現状は、残念ながら、ここまでということで、邪馬台国はここだと、ピンポイントで示すことはできません。
もうチョットなんですけどね。


 ではでは

「魏志倭人伝」の正式名称から分かること

 「魏志倭人伝」の正式名称について考えると、陳寿の改ざん疑惑に対する、状況証拠が見えてくる、という話です。
yokositu.hatenablog.com

 

 

魏志倭人伝」の正式名称

 「魏志倭人伝」は、正式には魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人といいます。

魏の正史である、「魏志」の第30巻の、烏丸鮮卑東夷伝の中の倭人の条(項目といった意味です)を、「魏志倭人伝」と通称している訳です。


烏丸鮮卑東夷伝倭人条とは

 烏丸鮮卑東夷伝倭人条の内、烏丸、鮮卑は、北方の民族名です。
東夷伝は、東方の民族について記述したもので、夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭が含まれます。
その中の倭に関する部分が、倭人条となります。

東夷伝の東夷とは、単に東方を指しているわけではなく、古代中国において、東西南北4方位の異民族を蔑称して、東夷(とうい),西戎(せいじゅう),南蛮(なんばん),北狄(ほくてき)と呼んだことによるものです。

つまり、烏丸鮮卑東夷伝で、魏の北狄、および東夷の国に関して、纏められているという事になります。


西戎,南蛮についての記述は

 では、西戎,南蛮の国に関しては、どのように纏められているのかというと。

なにも無いのです。
西戎伝,南蛮伝といったものは、「魏志」には存在すらしていません

西晋王朝を開いた、司馬氏に徳があることを示すために、陳寿は「魏志」を書きました。
その司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にありました。
そのため、司馬氏と関係の深かった、北方と東方の国に関する記述のみで、西方と南蛮に関しては、書くことすらしなかったと思われます。


これは、かなり見え見えですよね。
もうちょっと、上手に糊塗しても良かったんじゃないかと、思うんですが。
まあ、正史とはそういうものだ、とも言えるんですけどね。


 ではでは

邪馬台国が7万戸は、いくらなんでも多すぎないか

 以前の記事で、邪馬台国への旅程は、「魏志倭人伝」の作者陳寿が改ざんしたのではないか、という話をしました。

yokositu.hatenablog.com

今回は、それに関連して、戸数に関しても怪しいのではないか、という話です。

 

 

7万戸はいくらなんでも多すぎないか

 「魏志倭人伝」の記述によると、邪馬台国には、7万余戸があったということになっています。
1戸当たり、4人とすると、28万人余り。
さらに、邪馬台国までの旅程の国の戸数も併せて合計すると、15万戸余りとなり、60万人余りとなります。

これが、どのくらいの数字かというと。
平城京の人口は、概ね10万程度だと考えられているようです。
ということは、邪馬台国は、平城京の3倍程度の規模だったことになります。

また、旅程中の、奴国は2万余戸、投馬国が5万戸余で、それぞれ平城京の、1倍と2倍程度の規模となります。

つまり、平城京、またはそれ以上の規模の国が、ゴロゴロしていたことになります。
今まで、発掘されていないのは、あり得ないですよね。

ちなみに、吉野ケ里遺跡の推定人口は、5千人程度です。

さらに、当時の日本の人口については、考古学の成果を踏まえて、様々に推計がされていますが、概ね50~70万人といった数値のようです。
これは、明らかにおかしいですよね。

やはり陳寿が怪しい

 以前の記事で触れたように、陳寿は、西方の大月氏などの大国に匹敵する、東方の大国から朝貢があった事にする必要があった訳です。
そのため、旅程だけではなく、その規模に関しても改ざんしたのだと思います。

改ざんといっても、厳密に数字を合わせる必要もなかったと、考えられます。
私は、単純に各国の戸数を10倍したのではないかと思っています。

そうだとすると、各国合計で約6万人余りと、それなりの数字になるのですが。
それでも、邪馬台国は3万人弱と、どうかなという規模になるんですけどね。


 ではでは

 

「魏志倭人伝」の作者は、なぜ旅程を改ざんしたのか

 今回は、「魏志倭人伝」の作者は、なぜ旅程を改ざんしたのか、についての話です。
これは、以前の話の続きとなります。

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魏志倭人伝」とは。作者とは。

 改ざんしたと疑われているのは、西晋陳寿という人物です。

西晋は、ご存知三国志の三つの国、魏、蜀、呉のうちの、魏の後を継いだ王朝の名前です。

そうです、魏です。
魏志倭人伝」の魏です。
つまり、陳寿は、一つ前の王朝の歴史書を書いた訳です。

魏志倭人伝」とは
 「魏志倭人伝」は、魏志の中の倭人に関する項目といった意味です。
魏志は、上にもあるように、魏の国の歴史をまとめたものです。
中国で、正史と呼ばれているものの1つです。

 正史は、時の王朝が、一つ前の王朝の歴史についてまとめたものになります。
なぜ、一つ前の王朝の歴史をまとめるのか。
これには、中国の世界観が関係しています。

正史をまとめる背景

 中国では、天に居る天帝が、全てを治めていると考えます。
その天帝が、人間の中からのある人物を選び、地上を治めるように命じます。これを、天命といいます。
天命を受けたものが、その正当性を持って、王朝を開き統治します。

最初の代は、天命を受けるほど徳があっても、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉もあるように、代を経るにつれ徳を失っていきます。
すると、天帝は、再び徳のある人物を選び直し、あらためて(革めて)命を下します。
これを、革命といいます。
この革命により、王朝が交代すると考えます。

正史は、いかに前王朝が徳をなくし、新たに命を受けた現王朝が取って代わったかを、その歴史を通して示し、それにより、現王朝の正当性を知らしめるために、書かれます。

なぜ改ざんしたのか

 という訳で、現王朝西晋の正当性を示すために、陳寿魏志を書きました。

ところで、西晋を開いた司馬氏は、前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部を治める立場にありました。
そのため、陳寿は、司馬氏の徳あることを示すために、司馬氏が治める地域に隣接する、倭人邪馬台国朝貢を行ってきたことを、魏志の中に、倭人伝として記述したのです。

さらに、邪馬台国が、西方の大月氏等の朝貢国と同等の、中国東方の国だと見せかけるために、旅程を改ざんし、実際よりも南に存在するようにしたのだと思います。
これは、もちろん、司馬氏の徳が、それほどの国を朝貢に来させるほど、高いと見せるためです。


 以上が、「魏志倭人伝」における、邪馬台国への最後の旅程、南に水行10日、陸行1月が、改ざんされていると考える理由です。

 

 ではでは。

 

邪馬台国の場所は、〇〇の何処かだ

 邪馬台国に関する最大の問題は、何と言ってもその場所が特定できないということだと思います。
そこで、色々と見聞きしてきたものの中で、私が納得できた説を基にした、ここじゃないかなあ、という話です。

 

なぜ場所が特定できないのか

 先ず、話の前提として、なぜ場所が特定できないのかを、簡単に説明させてもらいます。

邪馬台国は、3世紀に日本にあった国です。
中国の歴史書魏志倭人伝」に、その朝貢の事実、至るまでの旅程、風俗等が記載されています。
ならば、場所もすぐにわかりそうなものなのですが、その「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国までの旅程に問題があるのです。

中国からの使者の報告の記録を基にしたと思われる、その旅程によると。
先ず、朝鮮半島から、壱岐対馬を経由して、福岡周辺の北部九州に上陸します。
いくつかの国を経由して、最後に邪馬台国に到着する訳ですが。
問題は、その最後の行程が、南に水行10日、陸行1月となっているということなのです。

これ、素直に考えれば、九州を縦断して、さらに南方の洋上に、邪馬台国があることになってしまうわけです。

どこだと考えられているのか

  現状、場所にかんしては、九州説と畿内説が二大勢力と言っていいでしょう。

主に、旅程中の距離などを色々と考察して九州内に収まるとするのが、九州説。

最後の行程の南にというのが、東の書き間違いだとして、瀬戸内海を通って大阪付近に至ると考える、畿内説。

ちなみに、南方洋上を素直に考えて、邪馬台国は、琉球や台湾、はてはフィリピンにあったという説もあるみたいです。

南に水行10日、陸行1月は変

 以上の話のなかで、私が問題にしたいのは、最後の行程が、南に水行10日、陸行1月となっているという点です。
これ、変だと思いませんか。

魏志倭人伝」によれば、多くの国の間での争い(倭国大乱)を収めるために、卑弥呼邪馬台国の女王として共立したとなっています。
その国が、往復で3か月近くもかかる場所に有るというのは、おかしいと思いません?

まあ、百歩譲って、遠くに有ったとしましょう。
そうすると今度は、邪馬台国までの間のことが何も触れられていないのは、変じゃないですか。
荒野と海しか無かったとは考えにくいですよね。

邪馬台国の場所は

 最後の行程の部分は、「魏志倭人伝」を書いた人物が、改ざんしたんじゃないですかね。

基になった記録には、最寄りの国からの、方角とそれなりの距離が書いてあったと思います。
それを、「魏志倭人伝」を書くときに、南に水行10日、陸行1月と改ざんした。
それによって、邪馬台国の場所が南方洋上という変なことになってしまった。

実際には最寄りの国の周辺に有ったと考えられるので、邪馬台国の場所は、九州の何処か、概ね北部か中部じゃないかと思うんですが、どうでしょうか。

 

 まあ、唐突に、作者が改ざんと言われても、都合よすぎて、にわかには納得できないとは思いますが。
魏志倭人伝」の作者が、なぜ改ざんしたのか、については長くなるので、また今度ということで。


 ではでは。