以前の記事で、邪馬台国への旅程は、「魏志倭人伝」の作者陳寿が改ざんしたのではないか、という話をしました。
今回は、それに関連して、戸数に関しても怪しいのではないか、という話です。
7万戸はいくらなんでも多すぎないか
「魏志倭人伝」の記述によると、邪馬台国には、7万余戸があったということになっています。
1戸当たり、4人とすると、28万人余り。
さらに、邪馬台国までの旅程の国の戸数も併せて合計すると、15万戸余りとなり、60万人余りとなります。
これが、どのくらいの数字かというと。
平城京の人口は、概ね10万程度だと考えられているようです。
ということは、邪馬台国は、平城京の3倍程度の規模だったことになります。
また、旅程中の、奴国は2万余戸、投馬国が5万戸余で、それぞれ平城京の、1倍と2倍程度の規模となります。
つまり、平城京、またはそれ以上の規模の国が、ゴロゴロしていたことになります。
今まで、発掘されていないのは、あり得ないですよね。
ちなみに、吉野ケ里遺跡の推定人口は、5千人程度です。
さらに、当時の日本の人口については、考古学の成果を踏まえて、様々に推計がされていますが、概ね50~70万人といった数値のようです。
これは、明らかにおかしいですよね。
やはり陳寿が怪しい
以前の記事で触れたように、陳寿は、西方の大月氏などの大国に匹敵する、東方の大国から朝貢があった事にする必要があった訳です。
そのため、旅程だけではなく、その規模に関しても改ざんしたのだと思います。
改ざんといっても、厳密に数字を合わせる必要もなかったと、考えられます。
私は、単純に各国の戸数を10倍したのではないかと思っています。
そうだとすると、各国合計で約6万人余りと、それなりの数字になるのですが。
それでも、邪馬台国は3万人弱と、どうかなという規模になるんですけどね。
ではでは