邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで話をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(前編)です。
邪馬台国東遷説については、下の記事を、ご覧ください。
紀元2600年
1940年( 昭和15年)に神武天皇即位紀元2600年を祝って記念行事が行われました。
これは、「日本書紀」の各天皇の即位年を順に遡ることにより、初代神武天皇の即位が、西暦紀元前660年となり、そこから2600年経ったことを記念したものです。
西暦紀元前660年は、中国では周の時代です。
つまり、日本は中国の周と同時代から続く正当な王朝で有ることを示して、朝貢ではなく、対等な関係になることを目指すことが、「日本書紀」が書かれた一つの理由だったと考えられます。
そのため、「日本書紀」は漢文で書かれているのでしょう。
なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのか
邪馬台国が東遷して大和政権になったと考えたときに、その正史たる「日本書紀」に、なぜ邪馬台国も、卑弥呼も出てこないのかが、最大の問題点と言えるでしょう。
それには、上記の「日本書紀」が作られた意図が関係していると、考えています。
中国と対等な関係を目指す意図で作られた歴史書に、五胡十六国の混乱を避けるために、亡命者と共に東遷した国と、その初代女王の話は入れる訳にはいかなかった訳です。
天孫降臨神話
とは言っても、当時の人々は、大和王朝が九州からやって来たことを、多かれ少なかれ知っている訳です。
一方で、「日本書紀」は国内に向けての、政権としての公式見解でもあった訳です。
その公式見解を作るにあたって、東遷の事実を、無かったことには出来なかったと思われます。
そのために導入されたのが、天孫降臨神話だと考えられます。
九州時代を全て神話とした上で、その神々の子孫である神武天皇が東征して、今の王朝を開いたことにした訳です。
神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思います。
その方が、九州には、高千穂などの伝承地がある訳で、それなりの説得力を付与することが出来、好都合だったのだと考えられます。
天照大神が卑弥呼だというのは、考えすぎではないかと思います。
ではでは