古代の頻繁な遷都について考えた話です。
遷都が多かった
前回の話は、太陽活動の低下から生じた気候的、社会的な不安定に対処する方策を学ぶために送られたのが、遣隋使だったのではなかったかというものでした。
その後、遣隋使、遣唐使と継続し、中国を手本として律令国家体制を築いていくことになります。
その頃の特徴として、非常に宮都の遷都が多いという点が挙げられます。
645年に大化の改新の始まりとなった、蘇我入鹿の暗殺が行われたとされる「飛鳥板蓋宮」から始まって、794年の平安京遷都までの間に、数え方にもよりますが15回ほどの遷都が行われています。
注:福原京は平清盛によるものなので今回の話とは関係ありません。
平均すると10年に一回という事になります。
なぜ多かったのか
この異常とも思える遷都については、教科書的には、律令国家への転換期で、国家が形成されていく過程のように説明されています。
それ以外にも、様々な理由が考えられています。
いわく、天皇の代替わりに合わせて、先代の死などの穢れを避けるため、怨霊などの祟りを逃れるためといった具合です。
何れも部分的にうなずける場合も有ります。
しかしながら、いずれも決定的なものとはなっていません。
なぜならば、最後に遷都された平安京が、その後1000年以上都で有り続ける事になったからです。
天皇の代替わり、先代の死、怨霊の祟りのいずれをとっても、平安京が都であった間にいくらでも例を挙げることが出来ます。
陰陽師の話を見ても分かるように、平安の人々がこれらの事に無頓着だった訳では無く、むしろ常に気にして生きていた人達だという事が分かります。
しかし、その為に平安京から別の都に移るといった事は有りませんでした。
やはり太陽活動の影響が
どう考えれば良いでしょうか。
やはり太陽活動の変化が影響していたのではないかというのが答えになりそうです。
というわけで、いつもながらの図です。
中世極小期と名付けられている変化が終わって、その次の中世極大期に向かっていく初めの頃に丁度平安京への遷都(794年)が対応しそうです。
仏教と律令制によるもではない
勿論、極小期に合わせて遷都したという訳では無く、平安京への遷都と相前後して偶然中世極大期への変化が始まったということなのだとは思いますが。
これによって気候が、ひいては社会が安定化し、平安京が都として使われ続けたという事なのではないでしょうか。
それにいたる時代を、人間側の歴史として見ると、中国に学びながら律令制国家が成立していった時代という事になる訳です。
その結果、これ以上中国から学ぶことは無いと考えたのか、遣唐使は送られなくなります。
律令制国家が成立したから、社会的な安定な時代になったという訳では無かったのですけどね。
さらに、仏教の力によるものでも無かったのは言うまでも有りません。
こう考えると、平安時代に軍事組織を廃止してしまったというのも分かるような気がします。
ではでは