武士と太陽活動について考えた話です
平安時代は太陽活動の回復期
以前の記事で、平安京が千年以上都として続いた背景にも、太陽活動の影響が有るのではないかと考えました。
例の図に有る、中世極小期から中世極大期への回復期と重なった事によるのではないかという話でした。
回復により社会が安定したのが背景要因だと考えたわけです。
桓武天皇が、律令体制下の軍事組織である「軍団」を廃止してしまったのも、その傍証と言えると思います。
特にそのころには、社会が安定していたという事でしょう。
「武士」の登場と太陽活動
その千年以上に渡る期間の中での最大のトピックは、なんと言っても「武士」の登場でしょう。
その出自に関しては、地方の領主層が武装化したものとか、清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層に求めるものとか、様々な見解が存在しています。
いずれにしても、歴史的には、桓武天皇が、律令制に基づいて置かれていた「軍団」を廃止したことにより生じた、武力の空白を埋める形で、検非違使のような令外官として表れてきたのが最初の例と言っていいかと思います。
武力が必要とされ、それに対応する形で生まれて来たのが「武士」だという事が出来そうです。
「軍団」を必要としない状態から、武力が必要とされる状態になったのですから、社会が不安定化したという事でしょう。
となれば、その社会の不安定化は、太陽活動の低下による気候変動によるのではないかという訳です。
中世極大期前の太陽活動
という事で、上に挙げた図を見て見ると、中世極小期から中世極大期への途中がショルダーを形成しているように見えますが、いまひとつはっきりしません。
そこで、以前戦国時代の記事を書いた時に参照した、同時代のより詳細な図で見てみたいと思います。
1200年頃の中世極大期(Medieval Maximum)への途中の1100年の少し前に低下している部分(Oort Minimum)が有るのが分かります。
1000年前後が、藤原道長に代表される藤原政権の絶頂期であり、1100年の少し前には源氏が活躍する「前九年・後三年の役」があった事を考えると、この太陽活動の低下が武士の台頭の背景となったと考えられるのではないでしょうか。
この太陽活動の低下による気候変動で社会が不安定化し、それに対応するために「武士」による武力が必要されたという事です。
その後の回復期に、源氏と平氏の間で権力闘争があり、鎌倉に武士による政権が樹立されることになる訳です。
気が付いたら、今年の大河ドラマを最後の2行で纏めていました。
ではでは