前回に続き、「邪馬台国サミット2021」を見て考えた話です。
畿内と間に吉備が有った
前回は、NHKBSで元旦に放送された「邪馬台国サミット2021」の内容を基に、三国志の作者陳寿によって「魏志倭人伝」の内容が情報操作されているのではないかという件について書きました。
もう一度、放送内容を見てみましょう。
1.纏向遺跡説
2.北部九州連合説
3.魏志倭人伝には情報操作が有る説
4.卑弥呼は邪馬台国の女王では無い
5.伊都国遷都説
6.伊都、吉備連合国説
6.銅鏡百枚はどの鏡か
(厳密には、場所を特定する話では無いですが、比較的長く取り扱っていたので)
7.吉備、出雲連合国説
この中の、3.「魏志倭人伝には情報操作が有る説」に関して前回は書いた訳です。
今回は、6.7.に出て来る吉備について考えてみたいと思います・
吉備という一大勢力
上記6.7.共に、当時の日本における有力な勢力が連合して、畿内に立てたのが邪馬台国だと言う説になります。
その是非はともかく、ここで特徴的なのが、いずれも吉備が出て来るという点です。
吉備は、ご存知のように、今で言う岡山県を中心としてその周辺をも含んだ、古代における一大勢力と考えられています。
考古学的にも、番組でも取り上げられたように、前方後円墳の基となったとも考えられている、盾築墳丘墓を始めとする多くの遺跡、遺物から、裏付けられているようです。
そこで、それ程の勢力が、邪馬台国と関係が無いとは考え難く、6.7.のような説が考えられるという事になります。
東進説から見ると
吉備が、岡山県を中心とするという事は、邪馬台国の東進説からすると、九州から畿内に至る行程の途中に一大勢力圏が有った事になります。
どう考えれば良いでしょうか。
やはり、戦って、打ち負かして通ったという事でしょうか。
しかし、考古学的にはそのような痕跡は無いようですし、後の大和政権になってからの歴史を見ても、吉備から多く天皇の后が出ているようなので、どうも戦ったという事では無いようです。
そうすると、邪馬台国が瀬戸内海を通って行くのを黙って見ていたのでしょうか。
それもまた考え難いものがあります。
神武東征
以前の記事で、応神天皇が邪馬台国東進の指導者であり、その事跡を神武東征という形にすることに拠り、中国に匹敵する歴史があるように見せる形で「日本書紀」を作ったのではないかという話を書きました。
その神武東征の事跡を見てみると、途中で吉備に3年間滞在して、船と兵量を準備したという記述が有るのです。
戦ったのでも、無視したのでもなく、それどころか東進を援助していたという事になります。
上記リストの6.7.とは違って、実は吉備と邪馬台国は同盟関係に有ったという事なのでしょうか。
同盟だったのか
ところで、私は、「日本書紀」の大国主命の国造り、国譲りの神話から、纏向遺跡は出雲の勢力の畿内における拠点であり、東進してきた邪馬台国により征服されたと考えています。
その邪馬台国の軍備を整える手助けをしたという事は、吉備と出雲の間には、同盟関係よりは敵対関係が有ったと考えるのが普通でしょう。
ではそれが、邪馬台国との同盟だったかと言うと、難しいところです。
私的には、当面の敵である畿内の出雲勢力に、東進すると言っている邪馬台国が戦いを挑むのであれば、やらせておけば良いということだったのでは無いかと思うのですが。
もし失敗に終わっても、吉備には直接的な痛手は無い訳ですし、畿内の出雲勢力の力もある程度削がれるかもしれない訳ですから。
いわば、漁夫の利を狙った訳です。
上手くいったらいったで、そのまま同盟関係に持ち込み、出雲を叩けば良いわけですから。
そして、邪馬台国は畿内を征服し、出雲を叩くことも出来(国譲り)、吉備からは天皇の后を排出する関係となったという訳です。
吉備としては、後に大和政権があれほどに強大になったのは、予想外だったのかもしれません。
ではでは