邪馬台国東遷から、継体天皇の出自について考えてみた話(前編)です。
邪馬台国東遷
前回の記事で、大和政権は、九州に有った邪馬台国が、畿内に東遷し、それを指導した応神天皇から始まった、というのが現状での私の仮説だという事を書きました。
そもそも、邪馬台国の東遷については、中国における、西晋が滅亡した後に出現した、五胡十六国と呼ばれる大動乱時代の影響を避けるべく、大陸から離れた畿内に移ったのが原因と考えた訳です。
ここで改めて、東遷について、確認しておきたいことが有ります。
それは、邪馬台国が畿内に移動したとはいっても、江戸時代の藩の国替えのように、一族郎党うち揃って移り住んだのでは無いという事です。
東遷と九州
ここで、その東遷によって、出発地の九州はどうなったかを考えてみたいと思います
まあ、邪馬台国は、元々九州を拠点としており、敵地に攻め込んでいたのでは無いので、退き戦というのでは無い訳です。
それでも、東遷している途中で、大陸から攻め込まれ、追撃を受けるような事態になるのは避けなければなりませんから、九州に後備えを残しておいた筈です。
さらに、東遷が完了した後には、現代でいうところの縦深防御の最前線の防御を担当することになる訳で、間違っても、大陸からの勢力と呼応するようなことが有ってはなりませんから、信頼できる者を残しておく必要があります。
もっとも考え易いのは、東遷の指導者応神天皇の子息という事になるでしょう。
そう、九州には、邪馬台国が東遷して大和政権が成立してからも、応神天皇の子孫を歴代のトップとする、出先機関とも言えるものが存在したのではないかと考えられのです。
九州の出先機関と大和政権
その後、大和政権は、広開土王碑の記述にみられるように、朝鮮半島への関与を強めた後に、高句麗に敗れることになります。
そして、倭の五王による朝貢に見られるように、一転して、中国との関係の中で、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に、方針転換をしました。
この間、九州の出先機関は、当然当初は、朝鮮半島に対して最前線で関与していたはずです。
しかし、方針転換後は、脇に追いやられた格好になったと考えられます。
当然不満があったはずで、そんな中、大和政権が弱体化したのを機に、政権の奪取を画策したのではないでしょうか。
そうした時に、当然行動の旗頭は、九州の出先機関の中でトップとして引き継がれてきた、応神天皇の子孫という事になります。
ちなみに、後に「磐井の乱」で登場する磐井は、トップを支える有力者だったと考えられます。
そして、該当する子孫が、応神天皇5世の孫である男大迹王だったという訳です。
以上のように考えると、継体天皇に関する話について、色々と説明出来るんじゃないかと思っているんですが、そのあたりを後編で検討したいと思います。
ではでは