邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(中編)です。
邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。
国造り、国譲りって、変?
前編で、神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思う、と書きました。
その中で、国造り、国譲りの話はちょっと変だなと思うんですよね。
国造り、国譲りの話は、ざっくり言うと、大国主(おおくにのぬし、「日本書紀」では大己貴命(おおあなむち))が葦原中国(あしはらなかくに、地上世界)の国造りを完成させ、天照大神(あまてらすおおかみ)などがいる高天原の神が譲りうけたという話です。
国譲りは、葦原中国平定とも言われます。
天孫降臨なのに、降臨する前に、その地を平定するなんておかしいと思いません?
降臨する前に、降臨して平定しているわけですよね。
国造り、国譲りって、何?
大国主は国造りを行い、出雲まで至った後、残りの国造りを協力しようと申し出た神がいた、それが大三輪(おおみわ)の神です。
大三輪の神が鎮座したのは、三諸山(三輪山)でした。
三輪山と言えば、その北西麓に有るのが纏向遺跡です。
これは、出雲地方の王朝が、宗教を含め、大和地方にも勢力を伸ばしたことを示していると思います。
そして、その中心が纏向遺跡の地だった。
纏向遺跡の地に関しては、以前の記事で、東遷した邪馬台国に征服されたと考えました。
つまり、国造り、国譲りは、纏向遺跡の地の征服に関連した事を示しているのだと考えられます。
国造り、国譲りって、禅譲?
とするならば、なぜ神武東征の事績として書かれていないのでしょうか。
出雲は、纏向側が助けを求めたでしようから、当然参戦したはずです。
「日本書紀」にも、平定のために派遣した神が、一人目は3年、二人目は8年たっても戻らなかったとの話があるので、長期の争いがあったと考えられます。
この争いで、出雲を完全に征服したのでないことは、大国主が今でも出雲大社に祀られていることから明らかで、何らかの形で停戦協定が結ばれたと考えられます。
また、「出雲風土記」に国譲りの話がないことから考えても、国譲りの実態は、東遷した邪馬台国による纏向遺跡の地の征服だったと考えられます。
纏向遺跡の地の征服と、出雲との停戦協定を、出雲王朝から大和王朝への禅譲だとするために、国造り、国譲りの話を、天孫降臨の前に入れ込んだのだと思います。
それにより、禅譲により国を譲られた後に、子孫の神武天皇が現在の王朝の始祖になったという筋立てにすることが出来、革命による禅譲を世界観とする中国に、正当性を示すことが出来ると考えたのでしょう。
もっとも、正史の本家である中国には、「ああ禅譲ですね、なるほどね」と、違った意味で了解されたと思うんですけどね。
ではでは