中国史書に書かれている倭について考えた話1です。
「倭の五王」と遣隋使は同じ国から
このブログでは、「倭の五王」は、「邪馬台国」が東遷する際に九州に残った勢力が使者を送った記録だと考えています。
その後継体天皇の時に、「磐井の乱」という形でヤマト政権に併合されたと考えます。
そのヤマト政権が、「倭の五王」から100年以上の後に遣隋使を送ることになります。
その送り先である「隋」の正史である『隋書』には、「漢」へ朝貢した奴国から「倭の五王」までをまとめる形で記載した後に、600年に使者がやって来たと記述がされます。
つまり、「漢」の時代から同じ「倭」が朝貢を行って来たと考えているわけです。
もっとも、正史である『隋書』は他の正史と同様に、「隋」の次の王朝で有る「唐」によって編纂されたものです。
従って、600年の使者以降の「隋」の時代の記述は、「隋」時代の記録を基に作成された物を基にしたと考えられますが、それ以前の記述は編纂時にまとめられた可能性が高いと言えます。
それでも、一続きで記述されているという事は、「隋」の時代にはそれまでの倭と同じ国から来たという認識が有ったと言っていいでしょう。
一見、本ブログの主張と相いれないように見えますが、どうでしょうか。
「倭の五王」の向かった先
先ず「倭の五王」から考えて見ます。
ここからは、中国歴代王朝の年表(部分)を参照しながら話をすすめます。
「倭の五王」とは、五世紀を通じて「讃・珍・済・興・武」という倭の5人の王が中国の王朝に朝貢したという話です。
その記事が記載されているのは、正史の一つ『宋書』になります。
ここに出て来る国「宋」は年表中の「宋(劉宋)」と書かれている王朝となります。
同じ図の上部2段目に有る、「呉・漢(蜀)・魏」が所謂『三国志』の三国になります。
その三国のうちの「魏」に、倭の「邪馬台国」が朝貢したという事が書かれているのが『魏志倭人伝』という事になります。
その『魏志倭人伝』を著したのが、三国の後を継いだ「晋(西晋)」の陳寿です。
その後、「晋(西晋)」が倒れ、時代は「五胡十六国」と呼ばれる動乱時代に突入します。
その動乱から逃れてきた亡命者と共に、動乱が海を渡ってくることを恐れて、「邪馬台国」が、九州宇佐の地から畿内に東遷し、後のヤマト政権となったというのが、本ブログでの東遷説の概要になります。
東遷時に、全てが畿内に移った訳では無く、九州に残った勢力もあり、その勢力が中国に朝貢したのが「倭の五王」ではないかと考えたわけです。
「晋(西晋)」が倒れた後、その一部は中国南部に「晋(東晋)」を建て、北部には北方民族が進入をします。
その後しばらく間中国では、北部の北方民族系の国と南部の漢民族系の国による南北朝時代が続くことになります。
その漢民族系の国である「宋」に「倭の五王」は朝貢しているわけですが、九州に残った勢力にも、倒れることになった「晋(西晋)」からの亡命者が関係していると考えられるわけですから、朝貢するとすれば当然の成り行きだったと言えるかもしれません。
遣隋使の向かった先
ヤマト政権が使者を送った「隋」は、図に有るように「晋(西晋)」以来久方ぶりに中国を統一した王朝でした。
その建国者である楊氏は、南北朝時代の北魏の軍人の出で、鮮卑族だったという説が有力のようです。
つまり、「隋」は北方民族系の王朝だった訳です。
従って、南朝の漢民族系の王朝で有る「宋」に朝貢した「倭の五王」に関する情報は、「隋」にはあまり無かった可能性が高いと考えられます。
『宋書』に記事が有るので、漢民族系の国に「倭」という国が朝貢していた程度のことは分かっていたはずです。
どうやらその「倭」が使者を送ってきたようなのでどういう国なのか尋ねたら、とんでもない事を言うので改めさせた、というのが600年の記事なのではないでしょうか。
「隋」はあくまでも、それ以前の正史に見られる「倭」から使者が来たと思っていたのだと考えれば、本ブログの主張と矛盾しないことになります。
ヤマト政権も「邪馬台国」が東遷したものだと考えれば、「倭」で間違っているわけではないのですけどね。
ではでは