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時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

武士と太陽活動2

武士と太陽活動について考えた話2です

 

 

前回の話

 前回は、武士の出現と伸長にも太陽活動影響が有ったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

引用元:シュペーラー極小期 - Wikipedia

Oort Minimumに向かう太陽活動の低下による気候変化により社会が不安定になり、それに対応するために必要とされた武力の担い手として「武士」が生まれてきたと考えました。

その後の活動の回復期の中で、「武士」が勢力を伸ばすことになります。

源平の権力争いに勝った源氏が極大期の付近で鎌倉幕府を開くことになった訳です。

鎌倉時代と太陽活動

 次の極小期のWolf minimumは、1340年付近と考えられているようです。

昔「一味散々北条氏」と覚えたように、鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。

鎌倉幕府は、極大期のなかで始まり、次の極小期に滅亡した事になります。

つまり、鎌倉幕府は、その存在期間の間、太陽活動は低下する一方だったのです。

これまでの本ブログの考え方からすると、この間の気候は不安定だったと考えられます。
そして、その影響で社会も不安定だったという事になりまs。

それを裏付けるように、この間に上皇天皇隠岐に流されるという事件が発生しています。

更に、これは社会が不安定だったからという訳ではありませんが、2度に渡る「元寇」もありました。
これによって、社会が混乱したことは確かでしょう。

鎌倉時代の武士

 良く「鎌倉時代」を表すのに、「関東武士の荒々しく粗野な」と言った形容をされることがあります。

しかし、確かに最初の頃にはそういった面もあったかもしれませんが、それよりも上で見たように、その時代を通じて気候が不順で社会が不安定だったことによるのではないかと思うのです。

結果的に、鎌倉時代を通じて武力に対する需要が大きく、戦闘的な気質を保ったままだったという事では無いでしょうか。

1333年に滅亡した鎌倉幕府の後を継いだのは、勿論「室町幕府」です。

上の図をもう一度見ていただくと分かるように、太陽活動は1400年の少し前まで一旦回復をします。

1400年前後は、金閣寺一休さんで有名な足利義満が将軍だった時期で、室町幕府の最盛期と言っていいでしょう。

足利氏も関東武士ですが、義満が太政大臣という公家の頂点ににまで上り詰めた事を見ても分かるように、無骨で粗野という感じはしません。

やはり鎌倉時代の武士の有り様は、その時代の雰囲気を反映したものだったのでしょう。


 その後の次の1500年付近の極小期へ向かう中での気候変動による社会不安の中で、応仁の乱を経て戦国時代へ突入することになります。


ではでは