邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(後編)です。
邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。
豊臣秀吉の朝鮮出兵と広開土王碑における倭
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、1592年から1598年に行われました。現代から見ると、約400年前の出来事になります。
以前の記事で、東遷後に、亡命者の意を汲み、朝鮮半島北部の覇権回復を目的に、半島に進出した事が、広開土王碑に記録されていると考えました。
それが、391年から404年のことです。
これは、「日本書紀」の完成した720年から見れば、約300年前の出来事という事になります。
つまり、当時の人々にとって、400年前後の半島進出は、現代の我々が、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関して知っているのと少なくとも同程度に、当時の国の規模を考えれば、それ以上に知られていた出来事だったはずです。
神宮皇后と三韓征伐
という訳で、最終的には高句麗に負けた訳ですが、半島進出に関して、「日本書紀」から外す訳にはいかなかったのだと思います。
そこで、作られたのが、神功皇后の三韓征伐の話だったと考えられます。
三韓征伐と言われていますが、実際に攻めたのは新羅のみです。
これは、百済とはほぼ戦っていない、広開土王碑の記述に比較的符合します。
ただ、さすがに高句麗に負けたとは書けずに、高句麗が朝貢を約したと、都合のいい表現になっています。
しかし、なぜ、例えば夫の仲哀天皇の事績ではなく、神功皇后なのでしょうか。
卑弥呼と神功皇后
「日本書紀」の編者にとって、魏志倭人伝もまた、無視出来ないものだったと考えられます。
それは、その内容が、魏志以降の多くの歴史書に引用されているからです。
そこで、三韓征伐を女性の神功皇后の事績とするとともに、時代を魏志倭人伝に合わせ、さらにその治世の記事中に魏志を引用することで、神功皇后と卑弥呼の関係を匂わすという、アクロバティックな方法を取ったのです。
一例をWikipediaから引用します
神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)引用元:神功皇后 - Wikipedia
見てお分かりのように、倭の女王となっており、邪馬台国も卑弥呼も出てきません。
出てこないけれども、卑弥呼に相当する女性、神功皇后はいましたよ、と苦しい言い訳ともいえる形に成っている訳です。
いわゆる、玉虫色の決着を図った訳です。
倭の五王
倭の五王に関しては、「日本書記」に記述はありません。
これは、その遣使の内容が、中国の権威を借りることが目的であった事と、魏志倭人伝ほど歴史書に引用されていないことから、無かったことにされたのだと思います。
ただ、応神天皇以降の事績に、呉国とのやり取りが何回か出てきます。
三韓征伐より後の年代ということと、呉国が中国南部を指すと考えられることから、これが、倭の五王に対応するのかもしれません。
ただし、朝貢した事にはなっていません。
神功皇后の話は、よくぞここまで無理くり考えたといった感がありますが、書紀講筵ではどのように説明されたんでしょうね。
ではでは
中編はこちらになります。