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『日本書紀』創られた日本 7 -編纂 7-

日本書紀』創られた日本 7 編纂についての話 7です。

 

 

編纂の指針

 編纂に関する最後として、『日本書記』編纂時の指針について
です。

前回までで『日本書紀』は、事実上の権力者であった藤原不比等が、時の天皇文武天皇の正統性を示す事で、自らの権力の安泰と藤原家による継承を図るために編纂されたものであることを見て来ました。

その編纂を進める上で、いくつかの指針のようなものが有ったのではと考えています。

一つ目は、大和政権が一貫して日本を治めて来た正統な王朝だというものです。

具体的には、中国では周の時代である西暦紀元前660年に即位した神武天皇から(細かいことを言えば、東征後になりますが)、万世一系で一貫してこの国を統治して来た国である、というものになります。

二つ目は、大陸(主に中国と朝鮮)に残る倭に関する記録は、出来得る限り大和政権が行ったものとして記述する。
ただし、事例を見てもらえれば分かりますが、決して断定することは無く、誤読を誘う形になっているという特徴が有ります。

これは、一つ目の指針から考えて当然のことになります。

一貫して大和政権が統治してきた訳ですから、それ以外の勢力が中国に朝貢したりすることは、有ってはならない事なのです。

また、大和政権としては中国に対して朝貢するようなことは無く、一貫して対等であったという立場を取っています。

当然、邪馬台国卑弥呼も、大和政権の歴史には出て来ません。

以上の方針を基に、古からの一貫した政権から禅譲された文武天皇という形で、結果として不比等の権力の正統性を示すために編纂されたのが『日本書記』なのです。

次回以降で、以上のような指針の基に創られた部分を見ていきたいと思います。


 と言ってるそばから、次回は『古事記』についてです。


ではでは

 

『日本書紀』創られた日本 6 -編纂 6-

日本書紀』創られた日本 6 編纂についての話 6です。

 

 

今回は編纂周辺を

 前回の記事で、藤原不比等が自らの権力の正統性を示すために、文武天皇の正統性を示そうと編纂されたのが『日本書紀』だったという事をみました。

 

yokositu.hatenablog.com

その中で、編纂を行わせたのは、不比等の晩年になってからだと書きました。

今回は、『日本書紀』の編纂と選上の辺りについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。

手本は『史記

 不比等が権力の存続を考えた時に、様々な方策を考慮したと思われます。

その中で、思い至ったのが、『史記』を始めとする中国の歴代の王朝の事をまとめた歴史書、いわゆる「正史」だったのではないでしょうか。

藤原鎌足の次男で有った不比等は、それに見合う教育を受けていたはずです。

大宝律令」編纂において中心的な役割を果たしたと考えられていることからも、それなりのレベルの知識を有していたと考えるべきでしょう。

当然、中国における「正史」の、現王朝の正統性を示すためのものという有り方についても、知識が有ったはずです。

同様のものを作ればいいと思いついたのだと思います。

その上で、日本では前例がないわけですから、参考にする対象は、最初の『史記』ということになります。

一から全て作っていない

 さて、『史記』をターゲットと考えた時に、不比等にはアイデアが有ったと思うのです。

一から全てを作らなくとも、それまでに大和政権でまとめられていた「帝紀」と「旧辞」をベースにすれば良いと考えたのでしょう。

こうする事により、神話の5帝時代から始まる『史記』に匹敵するものが作れると考えた訳です。

特に、天武天皇川島皇子以下に、「帝紀」と「上古の諸事」を纏めさせたという事が有りました。
当然、天武天皇より前までの部分が纏められているはずで、それに天武、持統の両天皇に関する部分を追加した上で、全体の体裁を整えたのが『日本書紀』だったのです。

これならば、不比等の晩年という比較的短い期間での編纂が可能だったのではないでしょうか。

舎人親王撰上の意味

 このようにして編纂した『日本書紀』を舎人親王元正天皇に撰上したのですが、これも正統性を確かにするために必要な事だったと考えられます。

舎人親王天武天皇の息子です、その息子が撰上した歴史書に、前回の記事で触れたように、皇位禅譲される程の人物だったと文武天皇は書かれていることになります。

舎人親王が、自らを含めた天武天皇の皇子の誰かではなく孫の文武天皇への、その母持統天皇経由の譲位を是としたことになる訳です。

日本書紀』の編纂に、舎人親王が直接関わったのかどうかは定かではありませんが、彼が撰上することで文武天皇の正統性を示すという点において大きな意味があったのです。


 その時代の権力の正統性を示すという点からいって、『日本書紀』は正に大和政権の「正史」なのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 5 -編纂 5-

日本書紀』創られた日本 5 編纂についての話 5です。

 

 

文武天皇の正統性

 前回の記事は、藤原不比等が『日本書紀』の編纂を命じたとした時に、その背景について考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 不比等の作り上げた権力構造の始まりとも言えるのが、持統天皇から文武天皇への譲位でした。

不比等には、自らの権力の正統性を示すために、文武天皇の正統性を示す必要があったと考えました。

日本書紀』の編纂

 そして、元正天皇の720年に、『日本書紀』が舎人親王より撰上されます。

不比等が亡くなったのが同じ720年で、享年63歳でした。

日本書紀』は、彼の晩年に作られたという事になります。
勿論、いつ死ぬのかは分からない訳ですが、当時の平均から考えればいつ死んでもおかしくないという意味での晩年です。

晩年になって不比等が考えていたのは、前回の記事で見たような無理に無理を重ねて作り上げてきたと言っても良い権力構造を、自分の死後の藤原家が維持していけるようにする事だったでしょう。

そのための方策の一つとして作らせたのが、『日本書紀』だったのではないでしょうか。

彼の権力構造の全ての始まりである、文武天皇の即位の正統性を示すために、その直前の持統天皇までの歴史を纏めさせたのだと思います。

日本書紀』最後の一文

 全30巻『日本書紀』の最終巻持統天皇の最後の記述は、
 「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」
となっています。

ここで注目すべきは、「禪」という文字です。
この文字は、「禅」の旧字体で、訓読みは「ゆずる」となります。
しかし「禅」なわけですから、多分に「禅譲」を意識していたと考えるべきでしょう。

ちなみに、持統天皇以前に生前に譲位を行った天皇は、35代の皇極天皇しかいません。

皇極天皇の譲位に関する『日本書紀』の記述は、皇極天皇の巻の最後に、
 「庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」
とあり、「譲」が使われています。

わざわざ違う文字を使っているいるわけですから、文武天皇天皇位を単なる「譲」ではなく、「禅譲」されてしかるべき人物だと言っているのです。

不比等は、この「禪」の一文字が欲しくて、『日本書紀』を編纂させたのだと思います。

その上で、天皇に撰上することにより、大和政権としての公式な見解としたということでは無いでしょうか。


 『日本書紀』が撰上されたのは720年5月であり、不比等が亡くなったのは720年8月です。図らずも、不比等の最後の置き土産となってしまったというところでしょうか。

 

ではでは

『日本書紀』創られた日本 4 -編纂 4-

日本書紀』創られた日本 4 編纂についての話 4です。

 

 

不比等が命じた

 前回は、『日本書紀』の編纂を命じたのが誰かを考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

日本書紀』に纏められられた最後の天皇持統天皇です。

その後を継いだ文武天皇の時代に権力を持っていた藤原不比等が、文武天皇の正統性を示すために編纂を命じたのではないかと考えました。

今回は、不比等が編纂を命じた背景について見てみます。

不比等が仕えた天皇

 背景を考えるにあたって先ずは、不比等が仕えた、持統、文武、元明、元正の4代の天皇の関係を見てみたいと思います。

 

引用元:元正天皇 - Wikipedia


持統天皇は、天武天皇の祖母になります。

なぜ、祖母から孫に継承されたのでしょうか。

文武天皇の祖父である天武天皇の死後、息子で皇太子の草壁皇子が即位する前に亡くなってしまいます。

母である天武天皇后は、孫で後の文武天皇皇位に就けるために、それまでの間自ら皇位に就き、持統天皇となります。

この時に、草壁皇子の兄弟の高市皇子などが、皇位を継ぐことも考えられます。(先代の天武天皇も、先々代の天智天皇の弟でしたから、あり得ないどころかむしろ高い確率で考えられる未来です。)

それを実現させないように、天武天皇の妻の持統天皇の即位という手を打った訳です。

その後、その成長を待って文武天皇に譲位します。
この時、文武天皇はわずか15歳であり、前例のない若さでの即位でした。

さらに文武天皇が25歳の若さで亡くなってしまうと、その子で後の聖武天皇に繋ぐために、母の元明天皇、姉の元正天皇と、まさになりふり構わずといった感じで代を重ねていきます。

不比等も関わっていた

 この流れには、不比等が大きく関わっていたと考えられます。

先ず、元々不比等草壁皇子に仕えていたと考えられており、その子である文武天皇皇位に就ける工作に、当然関わっていたと思われます(自分の将来を賭けたと言っても良いかもしれません)。

その文武天皇の夫人は、不比等の娘の藤原宮子であり、その間に出来た子が後の聖武天皇になります。

更に、聖武天皇にも、もう一人の娘光明氏を嫁がせています。

このようにして、外戚としての立場を作り上げることにより、自らの権力を作り上げていったのです。

始まりは文武天皇

 以上見てきたように、不比等の作り上げた権力構造の始まりとも言えるのが、持統天皇から文武天皇への譲位でした。

不比等には、自らの権力の正統性を示し次代以降の藤原家へと繋ぐために、文武天皇の正統性を示す必要があったのです。


 そして不比等は『日本書紀』を編纂させることになるわけですが、次回はその辺りについて考えます。
 

ではでは

 

『日本書紀』創られた日本 3 -編纂 3-

日本書紀』創られた日本 3 編纂についての話 3です。

 

 

前回の話から

 前回は、『日本書紀』もその一つである「正史」について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

日本は万世一系であり、中国のように王朝交代は無く、最高権力は常に天皇に有りました。

そのため、中国の「正史」のように、前王朝の最後の徳の無さを示すために編纂されることは有り得ません。

そう考えると日本における「正史」は、編纂者の権力の正統性を示すために時の天皇の正統性を示す、という変則的な形になっているという話でした。

今回は、その事を踏まえて編纂を命じた者について考えます。

命じたのは不比等

 『日本書紀』では、神武天皇から持統天皇までについて纏められています。

最後の持統天皇の次代は文武天皇で、その時に権力を握っていたのは、藤原不比等でした。

という事は、『日本書紀』は藤原不比等の権力の正統性を示すためにつくられたのでしょうか。

逆に言うと、正統性を示さなければならないような状況に、藤原不比等が有ったのかという事になります。

不比等に関する記述が『日本書紀』に現れるのは、持統天皇3年(689年)が初めてで、30歳の時となります。

亡くなったのは、元正天皇5年(720年)で、その間に、持統、文武、元明、元正の4代の天皇に仕えたことになります。

日本書紀』は持統天皇まで

 ここで、注目すべきは、『日本書紀』は持統天皇までの記録だという点です。

上に書いたように、不比等は4人の天皇に仕えた訳ですが、その不比等の編纂させた『日本書紀』が、一人目の持統天皇までというのはどういうことなのでしょうか。

中国の「正史」の考え方からすれば、持統天皇の前代の天武天皇までとして、その内容により自分の仕えた最初の天皇である持統天皇の正統性を示すものになったはずです。

しかしそれが持統天皇までであったからには、『日本書紀』が編纂された目的は、持統天皇の次の文武天皇の正統性を示すためだったという事になります。

そうなると、文武天皇の正統性が疑われた場合に、不比等の権力基盤の揺らぐことが有るのかどうかを、考えてみる必要が有りそうです。

不比等の出世が天智天皇落胤だからだという説があるようですが、もしそうであるならばその正統性を示す必要はなく、『日本書紀』の編纂の必要も無かったはずで、落胤ということは無さそうです。


 次回は、不比等が『日本書紀』を編纂させた背景について考えます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 2 -編纂 2-

日本書紀』創られた日本 2 編纂についての話 2です。

 

 

前回の話

 前回は、『日本書紀』編纂に関する従来の見方について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

一般に『日本書紀』は、天武天皇の命により始まり、681年から720年の約40年かかって編纂されたと考えられています。

しかし、天武天皇が命じたのは、あくまで「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたのであって、『日本書紀』の編纂ではなく、元正天皇の代になって舎人親王が纏めたものこそが『日本書紀』だという事になります。

しかし、その舎人親王についても疑問が有り、編纂させた本当の人物と目的が有るのではという結論で、その人物と目的を今回考えるという話でした。

という事なのですが、今回はその前に『日本書紀』もその一つである「正史」について考えて見たいと思います。

そうすることで、編纂させた本当の人物についても見えて来るはずです。

「正史」

 「正史」とは、時の政権が纏めた「正式な歴史」という意味で、決して「正しい歴史」とか「正確な歴史」ではありません。

その元祖ともいえる中国には、二十四の「正史」があり、その最初のものである『史記』を除く二十三史全てに共通する特徴として、全て各王朝を継いだ次の王朝が、前王朝について纏めているという事があります。

それには、中国における世界観が背景にあるのです。

中国では、天に居る天帝が、全てを治めていると考えます。
その天帝が、人間の中から徳のある人物を選び、地上を治めるように命じます。これを、天命といいます。

天命を受けたものが、その正当性を持って、王朝を開き統治します。

最初の代は、天命を受けるほど徳があっても、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉もあるように、代を経るにつれ徳を失っていきます。

すると、天帝は、再び徳のある人物を選び直し、あらためて(革めて)命を下します。
これを、「革命」といいます。

この「革命」により、王朝が交代すると考えます。

いかに前王朝が徳をなくし新たに命を受けた現王朝が取って代わったかをその歴史を通して示し、現王朝がこの「革命」により生まれた正統な王朝であるという事を知らしめるために、「正史」を編纂するのです。

日本は万世一系

 ところが、日本は万世一系であり、中国のように王朝交代は無く、最高権力は常に天皇に有りました。

その下で、実質的な権力を巡って行われた闘争が、日本の歴史だったという捉え方も出来るかと思います。

そのため、中国の「正史」のように、前王朝の最後の徳の無さを示すために編纂されることは有り得ません。

そう考えると、日本の「正史」は、最高権力者である天皇の事跡を記録する事により、間接的にその時々の実務的な権力を持つ者の正統性を示すために書かれたのではないかという仮説が建てられます。

日本においては、編纂者の権力の正統性を示すために時の天皇の正統性を示す、という変則的な形になっているのです。


 つまり、『日本書紀』で取り上げられている最後の天皇の次の代の天皇の時代に実務的な権力を持っている人物が、本当の編纂者という事になります。


ではでは

『日本書紀』創られた日本1 -編纂1-

日本書紀』創られた日本1 編纂についての話1です。

 

 

従来

 今回から『日本書紀』について見ていくのですが、前回書いたように、『日本書紀』編纂の目的について考え、それを基に記述内容について考えていくつもりです。

編纂の目的を考える前に、先ず従来の『日本書紀』の編纂についての考え方について見てみたいと思います。

日本書紀』の成立を推定する基となった情報は、次の勅撰史書である『続日本紀』の記述となります。

その元正天皇720年5月の部分に、

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷

以前から、一品舎人親王天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。

引用元:日本書紀 - Wikipedia

と有るのです。

この事から、『日本書紀』の成立は720年と考えられています。

さらに、上記の記述からは読み取れない、編纂が始まった時期に関しては、次のように考えられています。

日本書紀』の天武天皇10年(681年)に、天皇川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという記事が有り、これをもって、『日本書紀』の編纂の開始と捉えるのです。

ということで、一般に『日本書紀』は、681年から720年の約40年かかって編纂されたと考えられています。

天武天皇の命なのか

 これで、『続日本紀』に書かれている『日本紀』を撰上した舎人親王が、681年に天武天皇に命じられた川島皇子以下の12人に入っていれば、話は上手く収まることになります。

現実には、舎人親王は676年生まれで、681年にはわずかに5歳であり、さすがに、5歳の人間に命ずることはないと考えられます。

舎人親王が命を受けた相手については、歴史書での表現という事から見ても、ただ「天皇」とあれば、その記事が含まれてる部分の当代天皇を指していると考えるのが妥当でしょう。

とすると『続日本紀』にある、「天皇の命を受けて」という表現は当代の元正天皇の命を受けてという意味だという事になります。

元正天皇の命なのか

 以上の事を纏めると、天武天皇が命じたのは、あくまで「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたのであって、『日本書紀』の編纂ではなく、元正天皇の代になって舎人親王が纏めたものこそが『日本書紀』だという事になります。

しかしながら、この結論にも疑問が残ります。

先ず、「天皇の命を受けて」と言いながら、元正天皇が命じたという記録がない事が上げられます。

また、記録が無いだけで元正天皇が命じていたのだとすると、今度は、なぜ持統天皇までの歴史を纏めさせたのかがよく分かりません。

自分との間の、文武、元明天皇については、なぜ纏めさせなかったのでしょう。

ただ、『日本書紀』というものが実際に存在している以上、『続日本紀』の記述に有る様に、確かに舎人親王が撰上したという事実はあったのだと考えられます。

ただそれは、あくまで舎人親王が撰上しただけで、実際に編纂を行わせた人物と目的が別に有ったという事では無いかと思うのです。


 次回は、その人物と目的について考えて見ます。


ではでは

『日本書紀』創られた日本0 -前書きのようなもの-

日本書紀』創られた日本0 始めるに当たっての前書きのような話です。

 

 

前書きのようなもの

 これからどこまで続くか分かりませんが、『日本書紀』について書いていこうと思います。

ただ、『日本書紀』を最初の巻から最後の巻まで詳細に論じることが出来るほどの、知識も能力も有りません。

今回の一連の話では、『日本書紀』が編纂された目的を考察するとともに、それによって『日本書紀』の記述の中で、編纂に当たって創り出された部分について明らかにすることを目指したいと考えています。

そのため、関係する部分を摘まみ食いのような形で見ていくことになる予定です。

それらの内容を通じて、『日本書紀』に記述された日本の歴史を、大和政権がどのように創っていったのか見ていきたいと思います。


 という事で次回は、先ず編纂を命じたと考えられている天武天皇から始めたいと思います。


ではでは

ローマ帝国と現代日本

ローマ帝国現代日本について考えた話です。

 

 

ローマ帝国現代日本

 ここ最近、書籍、TV番組等々立て続けにローマ帝国に関しての情報に触れることが続きました。

こういった現象は、よくある情報に意識を向けると、その情報に関連するものが目につきやすくなるため、同じような情報に何度も出会ったように感じる、といった言い方をされることが有り在ります。

しかし、書籍などはこちらが選んでいるのでそういったことがあるかもしれませんが、TVでは明らかに複数の放送局で同じような対象を扱った番組が集中することが有るように思うのですが。

何か、世間の興味があるものを調べたデータとかあるんでしょうかね。

それはともかくとして、色々とローマ帝国について見ていると、ローマ帝国現代日本には意外と似ている点があるんじゃないかと思ったのです。

先進的社会

 言うまでも無く、ローマ帝国は古代社会において先進的な国家だったと言えるでしょう。

軍事、政治システム、統治システム、建築、公共事業等様々な分野で、当時の最先端を走っていたのは間違いのないところでしょう。

それに対して、現代日本も、時代の最先端を走っているかと言われれば、多くの分野では近年の状況は苦しいと言わざるを得ないところですが、まだまだ先進的な位置を占めているといってもそれ程非難の声は上がらないでしょう。

輸入品に依存

 ローマ帝国時代のローマの人口は、最盛期で100万人以上だったようです。

当然これだけの人口は、ローマ周辺の生産物だけでは生活することが出来ません。
そのため、ローマ帝国は常時大量の物資を、広大な属州から輸入していたのです。

個人的には、帝国の拡大政策の背景の一つに、人口増加に対応した物資の必要量の増加というのが有ったのでないかと考えています。

現代日本も、海外からの輸入に頼っているのは、ご存じのとおりです。

特に食料の輸入が途絶えれば、ひとたまりもないのは明らかです。

格差のある社会

 ローマ帝国では国民は、主なものとして貴族、騎士、平民、奴隷などの階級に分かれていました。

身分という厳然たる格差のある社会だったのです。

現代の日本はどうでしょう。

現代日本には、法的には身分制度は存在しません。
しかし経済的な格差というのが存在しています。

近年では、この格差が固定化されているのではないかという指摘もされるようになっています。

働いても食べていくのがやっと、へたをしたら生活保護以下という話もあったりします。
これなどは、ローマ帝国時代の奴隷よりもひどい状況ではないかと思います。
主人にもよるでしょうが、奴隷は衣食住は供給されていたはずですし、都市部の奴隷は金銭や物などの個人財産を持つことも許されていたようです。

娯楽

 ローマ帝国の都市の遺跡の多くに、闘技場、劇場が造られていることが知られています。
特にローマの闘技場コロッセオが有名です。

民衆に娯楽を提供するために造られたと考えられています。

中でも剣闘士による戦いは非常に人気が有りました。
奴隷が死ぬまで戦わされたわけでは無く、民衆に人気の出る者がいたり、多額の金銭を得たり、恋人を持ったり家庭を作ることも出来たようです。

現代日本ではどうでしょう。

多くの市区町村に、体育館、競技場、文化会館などがあり、都市にはプロのための野球場、サッカー場等が多く造られています。

スポーツを中心に、多くの娯楽が楽しまれています。

中でも、野球、サッカーは人気が有り、大谷選手のように多額の金銭を得るものも少なくありませんし、勿論家庭も持てます。

韻を踏んでいる?

 以上、結構ローマ帝国現代日本には、似ているところが有ると思うのですが。

勿論、一から十まで全く同じという事は無く、マーク・トウェインが「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」といったように、少なくない韻を踏んでいるという事なのかもしれません。


 滅亡という韻は踏まないようにしたいものです。


ではでは

「短里」は有ったのか?

「短里」について考えた話です。

 

 

距離が合わない

 『魏志倭人伝』の記述を基に邪馬台国の位置を考える時に避けて通れない問題に、「短里」が有ります。

魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国までの旅程では、距離を表すのに「始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に至る」といった感じで「里」が使われています。

当時の中国における1里は、約434mだとされているようです。

これを先の対馬国に至る千余里に当てはめると、434キロ余りという事になります。

先の文は、朝鮮半島から対馬島に渡る際のものですから、このままでは対馬島までが434キロ余りとなってしまい、実際の70数キロという距離と大きく違ってしまうことになるのです。

短里

こういった実際の距離との不整合を避けるために、「短里」というものが提唱されました。

千余里が70数キロという事なので、70数mが1里という約434mよりも短い1里、すなわち「短里」というものが使われていたのではないかというものです。

こう考えると、朝鮮半島内の旅程七千余里が約500キロという事とも矛盾しません。

ただし、当時の中国において、「短里」というものが制定されたという記録は無く、帯方郡韓半島地域でのみ使われていたのではないかという説もありますが、これも裏付けとなるものは無いようです。

しかし、「短里」を想定することにより旅程中の距離が無理無く説明できるために、本ブログでも採用してきました。

 

yokositu.hatenablog.com

改めて考えると

 ということなんですが、改めて考えるとこれは少し無理筋ではないかと思えてきました。

そもそも、邪馬台国までの旅程が記されている『魏志倭人伝』は、卑弥呼による朝貢に対する魏からの勅使による報告が基になっていると考えられます。

その報告をする時に、魏中央で正式に決められていないと考えられる「短里」を用いるとは考えられないのではないでしょうか。

魏の中央としても、様々な報告、記録に使われている距離の単位が統一されていないというのは、非効率極まりないことで考えられないことだと思うのです。

勅使の報告は、1里約434mで報告されたはずなのです。

一万二千余里にするために

 対馬までの70数キロを1里約434mで換算すると、75キロで約173里になります。

そこまで正確に測っていたわけでは無いでしょうから、約200里とすると千余里というのは、5倍したという事ではないでしょうか。

なぜ、5倍なのでしょうか。

邪馬台国までの旅程中距離が里数で記されている、帯方郡から不弥国までの里数を合計すると1万700余里になります。
これを5で割ると、2千140余里です。

また本ブログでは、邪馬台国宇佐市に在ったと考えており、築上町築城付近と考える不弥国からは、80里程度になると考えられます。

合計すると、元々の報告にあった邪馬台国までの距離は、2千220余里程度だったと考えられるのです。

陳寿には、この数字が問題でした。

陳寿は、西方の大月氏に比肩する大国にとするために、邪馬台国までの距離を一万二千余里にしたかったのです。

 

yokositu.hatenablog.com

そのために里数を5倍にしたのです。

さらに、九州の南方すなわち中国の東方に位置するために、不弥国より先の旅程を日数表記にして、距離、位置共に曖昧にしたのです。


 我々は、陳寿の逆を行い、「短里」を生み出したのです。


ではでは

邪馬台国から大和へ 119 -まとめと後書きのようなもの-

 

邪馬台国から大和へ」のまとめと後書きのようなものです。

 

 

邪馬台国から大和へ

 この「邪馬台国から大和へ」を書き始めた時には、邪馬台国の位置の解明と、その後の大和政権と九州王朝の並立について書くつもりでした。

そのあたりは、白村江の戦いに関係する話までで一応書き終わったのですが、その後『日本書紀』の記述との関係を書き始めてから、まとまりのない内容になってしったかなという感がしないではありません。

とはいえ、先回までの聖徳太子の話までで、一応邪馬台国絡みの話は一区切りついた感がしますので、「邪馬台国から大和へ」についてはここまでで区切りとしたいと思います。

今回は最後として、全体を通してまとめてみたいと思います。

まとめ

  • 邪馬台国は、現在の九州大分県宇佐市にあった。
  • 卑弥呼の墓は宇佐八幡宮である。
  • 大陸で起こった五胡十六国の混乱を避けるために、邪馬台国の一部が東遷を行い、後の大和政権となった。
  • 東遷を行ったのは応神天皇である。
  • 東遷に従わず九州に残った勢力(九州王朝)があった。
  • 好太王碑文にある倭の侵攻は、九州王朝によるものである。
  • その後のいわゆる倭の五王も、九州王朝の王である。
  • 遣隋使を派遣したのは九州王朝である。
  • 遣唐使も、最初の2回は九州王朝によるものである。
  • 大和政権と九州王朝の並立は、白村江の戦い直前に九州王朝が大和政権に滅ぼされるまで続いた。
  • その後、大和政権が第3回目以降の遣唐使を送った。
  • 日本書紀』編纂に当たって、大和政権を中国の歴史に匹敵する万世一系の王朝であるとするために、邪馬台国及び九州王朝についてはその存在を抹消することにした。
  • 中国の歴史に匹敵す国とするために創り出されたのが、神武天皇であり、応神天皇による東遷の事績をもとに、神武東征の話が創られた。
  • 表面的には抹消したことになっているが、応神天皇までの系図のうち、崇神天皇以降はルーツたる邪馬台国系図を基にしている。
  • さらに、大陸に記録されている邪馬台国、九州王朝に関係する記録に対応する事績を創り込むことにした。
  • 邪馬台国卑弥呼から好太王碑文にある倭の侵攻までをカバーする人物として創られたのが、神功皇后である。
  • 倭の五王に対応する事績として創られたのが、応神天皇仁徳天皇雄略天皇の時代に有ったとされる、呉国との間での交流の話である。
  • 遣隋使、最初の2回の遣唐使に関する記録に対応する人物として創り出されたのが、聖徳太子である。

 

  『日本書紀』については、改めて最初から通して考えてみたいです。

 


ではでは

邪馬台国から大和へ 118 -『日本書紀』62 聖徳太子(まとめ)-

日本書紀』についての話62、聖徳太子について考えた話(まとめ)です。

 

 

創られた人物

 今回は、ここまで見てきた聖徳太子についてのまとめです。

先ず、結論から入ると、聖徳太子は『日本書紀』編纂に際して創りだされた人物だという事になります。

なぜそんなことをする必要があったのか。

中国の王朝隋の正史『隋書』に、倭からの使者の記録が有ります。
いわゆる遣隋使です。

同時期の九州には、大和政権とは異なる男王を冠する王朝(九州王朝)があり、実際に遣隋使を送ったのはこの九州王朝なのです。

 

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これに対して大和政権は、『日本書紀』の編纂に際して、遣隋使を大和政権が送ったことに見せかけるべく、政権側の人物として創り出したのが聖徳太子だったのです。

 

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区分論から見ても、聖徳太子を創り出すために操作が行われたのは明らかと思われます。

 

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『隋書』に合わせた事績

 大和政権が送ったと見せかけるために取った手段が、『隋書』の記録に出てくる倭国に関する記述に合わせた事績を創り出すことでした。

その結果が、冠位十二階、十七条憲法、仏教の振興でした

 

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各事績内容の特長として、中国側の記録に完全に一致はしないがそれらしい事績を挙げるという形になっており、決して断定はしないことが挙げられます。

太子信仰

 前項でで書いたように、聖徳太子の事績の内の仏教の振興に関しても作り出された話だという事でした。

これは、聖徳太子の建立した寺院としてあまりにも有名な、四天王寺法隆寺についても言えます。

 

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いずれも『日本書紀』には聖徳太子が建てたとは書いてないのです。

特に、法隆寺については、和銅年間(708年 - 715年)に既存の寺院から移築する形で新たに建立されたと考えられます。

この、聖徳太子といえば、仏教を積極的に導入し、国内に広めることに尽力した聖人、というような一般的なイメージとのギャップは、『日本書紀』完成以降に創り出された太子信仰の影響が強いのです。

 

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太子人物像

 聖徳太子という存在が全くの虚像かと言うと、決してそうでは無く、推古天皇の皇太子としての用明天皇の第二皇子厩戸王は実在の人物だったと思われます。

ただし、推古天皇の摂政というのは、創作だと考えられます。

 

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また、斑鳩宮に併設する形で寺院(若草伽藍)を建てていると思われることから、仏教を信仰する立場だったことが伺われます。

日本書紀』の僧から学んだことと、経を講じたという話については、厩戸王の実際の事績という可能性も有りそうです。

ひょっとしたらこの仏教との関係性があって、厩戸王という人物が選ばれたのかもしれません。

ここまで見てきたように、聖徳太子の人物像は、実在の推古天皇の皇太子厩戸王を基に『日本書紀』の中で創られたものと、その後の聖徳太子という諡号と太子信仰によって形作られたものだということが出来ると言えそうです。


 10人の話が同時に分かったといったエピソードも、推して知るべしという事でしょう。


ではでは

 

邪馬台国から大和へ 117 -『日本書紀』61 聖徳太子(皇太子兼摂政)-

日本書紀』についての話61、聖徳太子について考えた話(皇太子兼摂政)です。

 

 

皇太子兼摂政

 ここまで聖徳太子は、中国側の正史に記録されている遣隋使を派遣した大和政権側の人物として創り出されたのだという仮説のもと、様々な点について見て来ました。

今回は、聖徳太子の肩書について考えてみたいと思います。

日本書紀』では、後に聖徳太子と呼ばれることになる厩戸王は、推古天皇の「皇太子兼摂政」だったと書かれています。

ここまでの経緯からすると、この肩書についても怪しい感じがするのですが、果たしてどうでしょう。

皇太子

 前回の話では、聖徳太子の子山背大兄王について考えてみました。

 

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日本書紀』では山背大兄王は、父聖徳太子が皇太子でありながら、蘇我一族により皇位を継げなかっただけでなく自殺に追い込まれた悲劇の人とされています。

しかし区分論から考えて、蘇我一族による妨害は聖徳太子像を創り出すときに書き換えられた話であり、実際には山背大兄王の人望の無さが招いた結果ではないかという話でした。

同様に区分論からは、山背大兄王が自殺に追い込まれたのは事実と考えられました。

人望の無い山背大兄王が、皇太子の子であることを理由に即位を画策したために、最終的に自殺に追い込まれたのではないかというわけです。

つまり、父聖徳太子推古天皇の皇太子であったというのは、事実である可能性が高いと思われるのです。

皇太子の事という立場が重いものであるからこそ、自殺にまで追い込まれたのです。

摂政

 最初に書いたように、聖徳太子は中国側に記録された遣隋使を送った大和政権側の人物として創り出されたと考えています。

その中国側の記録の中では、遣隋使を送ったのは倭の男王だと書いてあるのです。

日本書紀』はそれに対応するのは、大和政権では聖徳太子だと暗に言っているのですが、その肩書が皇太子だけだとすると男王とはならないのではないでしょうか。

皇太子には遣隋使を送るような実権ないとかんがえるのが普通でしょう。

そのために考え出されたのが「摂政」なのではないでしょうか。

大和政権には、皇太子でかつ摂政という実権をもった人物がいますよと、言っているのです。

ただし、あくまでもその人物が遣隋使を送ったとは、直接書くことはしないのです。

神功皇后

 以上の話にはよく似た人物がいることに気が付きます。

神功皇后です。

本ブログでは神功皇后は、邪馬台国卑弥呼から広開土王碑文にある倭による朝鮮半島侵攻までに対応する大和政権側の人物として創り出されたと考えています。

女王である卑弥呼に対して、皇后でかつ摂政であった神功皇后

これは、同じパターンではないでしょうか。

女王に対する人物なのに、皇后であって天皇でないのは、最初の女性天皇推古天皇であることは周知の事実であったことから、皇后としたのだと考えています。

皇后は通常実権を持つとは思われないので、摂政という形にしたのでしょう。


 神功皇后聖徳太子は、同じフォーマットで創りだされたのです。
 

ではでは

邪馬台国から大和へ 116 -『日本書紀』60 聖徳太子(山背大兄王)-

日本書紀』についての話60、聖徳太子について考えた話(山背大兄王)です。

 

 

区分論

 前回は、区分論と聖徳太子の関係を考えました。

 

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日本書紀』に対する、その使われている漢文の違いによる分類を基に考えると、巻21の途中から~巻23は天武天皇の681年の命により編纂されたものが、最終的な書記の完成までに書き換えられたと考えられるという話でした。

その巻21の途中から~巻23は、全て聖徳太子関連の話を含む部分であり、それをもって聖徳太子関連の話は創られた話という仮説の傍証ではないかと考えました。

巻24にも山背大兄王

 確かに、巻21の途中からと巻22には聖徳太子の話がありますし、巻23にはその子山背大兄王の話がありますから、聖徳太子関連で間違いはないのですが、実は巻24にも関連の話が有ります。

それは、山背大兄王蘇我入鹿により自殺に追い込まれるという話です。

前回の話で見たように、この巻24は書き換えはされていません。

つまり、超人聖徳太子の話を創り出す上では、山背大兄王の自殺という話は書き換える必要が無かったということになります。

逆に言うと、巻23の山背大兄王の話は、書き換える必要があったという事になります。

問題は皇位継承

 巻23の話は、推古天皇崩御後の皇位継承に関する話です。

具体的には、推古天皇が後継を指名しなかったために、敏達天皇の孫の田村皇子との間で後継問題が起きます。

蘇我蝦夷は、群臣に諮りますが意見が分かれます。

その上で、蝦夷が田村皇子を推し、舒明天皇として即位することになります。

母が蘇我氏出身で、蘇我の血を引くにも関わらず蘇我蝦夷に見捨てられる形となるのです。

そして、蘇我蝦夷の子蘇我入鹿によって自殺に追い込まれてしまいます。

何を書き換えたのか

 『日本書紀』での山背大兄王の描かれ方は、超人聖徳太子の子にも関わらず、蘇我一族により皇位を継げないだけでなく、自殺に追い込まれた悲劇の人物という感じでしょうか。

ただしここまで見てきたように、これは巻23で書き換えが行われた結果なのです。

何を書き換えたのでしょう。

本ブログとしては、山背大兄王蘇我一族により悲劇の人とされたという点ではないかと考えます。

ひょっとしたら、推古天皇は正式に後継指名はしていないまでも、田村皇子を推していたのではないでしょうか。
そして群臣もそれに異論を唱える者は多くは無かったのではないか。

勿論、そうであるならば蘇我蝦夷も策を弄する必要は無かったでしょう。

書き換える前の話は、すんなり田村皇子が即位したというものだったのではないでしょうか。

そんなことになった理由は、山背大兄王が人望が無かったといったことではないでしょうか。
なので、山背大兄王が自殺に追い込まれても、さほどの混乱は記録されていないのではないでしょうか。

超人聖徳太子の息子が、人望が無くて皇位を継げなかったというのは困るわけです。
そのために書き換えが行われ、悲劇の人物が創り出されたのです。
そして悲劇の人という人物像には、自殺という結末は書き換える
必要が無かったのでしょう。


 推古天皇にも嫌われていたのかも。


ではでは

邪馬台国から大和へ 115 -『日本書紀』59 聖徳太子(区分論)-

日本書紀』についての話59、聖徳太子について考えた話(区分論)です。

 

 

区分論

 日本語学者の森 博達は、30巻からなる『日本書紀』を、使用されている漢文から2つのグループに分けられるとしています。
すなわち、中国語ネイティブによる正格漢文により書かれたα群と、漢文を習った日本人による倭習漢文によるβ群です。

具体的には、
 持統天皇期に中国人の続守言と薩弘恪が記した、
  α群 巻14~巻21の途中まで、巻24~巻27
 文武天皇期に新羅に留学した山田史御方が記した、
  β群 巻 1~巻13、巻21の途中から~巻23、巻28~巻29
の2群になります(巻30は確証がなく未分類)。

持統天皇の前は天武天皇で、巻28は天武天皇です。
つまり、『日本書紀』にある、天武天皇が681年に「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じた結果が、次代の持統天皇の時までかかって編纂されたα群で、当然天武天皇の直前までが纏められたという事なのではないでしょうか。

おかしな点

 という事だとすると、少しおかしな点があります。
なぜ巻21の途中から~巻23は、β群なのでしょう。

この事をそのままに考えると、天武天皇に「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じられたにもかかわらず、途中の一部を飛ばして編纂したことになります。

それはいくらなんでもあり得ないと思われます。

従って、持統天皇期にα群が出来上がった時点では、『日本書紀』の巻14から巻27に相当する部分は、全てそろっていたと考えられるのです。

つまり、巻21の途中から~巻23は、文武天皇期にβ群が編纂される時に、α群の一部として存在していたものを書き直したと考えざるを得ないのです。

なぜβ群に

 ちなみに、巻22は推古天皇、巻23は舒明天皇です。

推古天皇の皇太子兼摂政が厩戸王聖徳太子)ですし、舒明天皇の時には、厩戸王聖徳太子)の子山背大兄王が後の舒明天皇皇位を争っています。

さらに、巻21の途中からというのは、「丁未の乱」の部分になります。
この中に、あの有名な四天王の像をつくり、四天王寺の建立を発願する話が出て来ます。

という事で、書き直されたのは厩戸王聖徳太子)に関する話が載っているパートという事になりそうです。

β群が編纂される際に、中国側の遣隋使の記録に対する大和政権側のカウンターパートしての、超人厩戸王聖徳太子)を創り出すことになり、その関係するパートが書き直されたのです。


 正格漢文と倭習漢文の違いが分かるって、高校時代に漢文が大嫌いだった者としては信じられないです。


ではでは