『日本書紀』についての話50、聖徳太子について考えた話(仏教の振興)です。
仏教の振興
「仏教の振興」ですが、特に聖徳太子と仏教に関しては、現代まで続く太子信仰の影響が大きく、後に太子の業績とされたものがあることを考慮する必要があると思います。
『日本書紀』に記述がある聖徳太子の仏教関係の記述は次のようになります。
・高麗の僧の慧慈に仏教を習う
・四天王寺を建立
・十七条憲法第2条の「篤く三宝を敬え」
・勝鬘経、法華経を講ずる
意外と少ないなというところではないでしょうか。
例えば、聖徳太子といえば外すことの出来ないと考えられる、法隆寺が有りません。
法隆寺は聖徳太子が創健したと言われていますが、これは金堂に安置されている薬師如来坐像の光背銘に、「推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」とあるのがもとになっています。
しかし、これについては、薬師像の鋳造技術、銘文の用語などから後の製作だと考えられています。
そもそも、法隆寺のある斑鳩の地には、聖徳太子が宮と造ったという記述が『日本書紀』にありますが、その時に寺を造ったといった話は全くないのです。
超人的ではない
四天王寺については、蘇我氏と物部氏の戦いに際して、聖徳太子が四天王の像を彫り、戦勝を祈願し、勝利の後にその誓いを果たすために四天王寺を建立したと書かれています。
その時に、蘇我馬子も「寺塔を建てて、三宝を流通する」との祈願をし、勝利後に飛鳥に法興寺を建立したとの記事があるのです。
聖徳太子だけがすごい事をしたわけではないのです。
残るは、僧から学んだことと経を講じたという話です。
つまり、『日本書紀』の仏教に関しする記述を見る限り、聖徳太子はよく学んでいたかもしれないが、それ以上に特筆すべき人物だったという事はないのです。
『隋書俀国伝』では
さて、前回までの聖徳太子に関する事績の話で見てきたように、『日本書紀』の記述は、『隋書俀国伝』に書かれた遣隋使の話を想起させるような内容を狙ったものだと考えてきました。
今回の、仏教関係の話はどうでしょう。
使者が、有名な「日出ずる所の天子云々」の国書を渡すと共に「海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶために来ました。」という趣旨のことを言っているのです。
つまり、遣隋使の目的は仏法を学ぶためだと言っているわけです。
勿論そういったのは、九州王朝から来た使者です。
『日本書紀』では、聖徳太子をその使者を送った男王に相当する人物だとミスリードしたいわけですから、仏教に理解のある人物でなければならなかったのです。
ただし、仏法を学ぶために遣隋使を送ったのですから、仏教に関しては超人的である必要はなかったのです。
『日本書紀』の聖徳太子と太子信仰における聖徳太子は違うのです。
ではでは