『日本書紀』についての話62、聖徳太子について考えた話(まとめ)です。
創られた人物
今回は、ここまで見てきた聖徳太子についてのまとめです。
先ず、結論から入ると、聖徳太子は『日本書紀』編纂に際して創りだされた人物だという事になります。
なぜそんなことをする必要があったのか。
中国の王朝隋の正史『隋書』に、倭からの使者の記録が有ります。
いわゆる遣隋使です。
同時期の九州には、大和政権とは異なる男王を冠する王朝(九州王朝)があり、実際に遣隋使を送ったのはこの九州王朝なのです。
これに対して大和政権は、『日本書紀』の編纂に際して、遣隋使を大和政権が送ったことに見せかけるべく、政権側の人物として創り出したのが聖徳太子だったのです。
区分論から見ても、聖徳太子を創り出すために操作が行われたのは明らかと思われます。
『隋書』に合わせた事績
大和政権が送ったと見せかけるために取った手段が、『隋書』の記録に出てくる倭国に関する記述に合わせた事績を創り出すことでした。
その結果が、冠位十二階、十七条憲法、仏教の振興でした
各事績内容の特長として、中国側の記録に完全に一致はしないがそれらしい事績を挙げるという形になっており、決して断定はしないことが挙げられます。
太子信仰
前項でで書いたように、聖徳太子の事績の内の仏教の振興に関しても作り出された話だという事でした。
これは、聖徳太子の建立した寺院としてあまりにも有名な、四天王寺、法隆寺についても言えます。
いずれも『日本書紀』には聖徳太子が建てたとは書いてないのです。
特に、法隆寺については、和銅年間(708年 - 715年)に既存の寺院から移築する形で新たに建立されたと考えられます。
この、聖徳太子といえば、仏教を積極的に導入し、国内に広めることに尽力した聖人、というような一般的なイメージとのギャップは、『日本書紀』完成以降に創り出された太子信仰の影響が強いのです。
太子人物像
聖徳太子という存在が全くの虚像かと言うと、決してそうでは無く、推古天皇の皇太子としての用明天皇の第二皇子厩戸王は実在の人物だったと思われます。
ただし、推古天皇の摂政というのは、創作だと考えられます。
また、斑鳩宮に併設する形で寺院(若草伽藍)を建てていると思われることから、仏教を信仰する立場だったことが伺われます。
『日本書紀』の僧から学んだことと、経を講じたという話については、厩戸王の実際の事績という可能性も有りそうです。
ひょっとしたらこの仏教との関係性があって、厩戸王という人物が選ばれたのかもしれません。
ここまで見てきたように、聖徳太子の人物像は、実在の推古天皇の皇太子厩戸王を基に『日本書紀』の中で創られたものと、その後の聖徳太子という諡号と太子信仰によって形作られたものだということが出来ると言えそうです。
10人の話が同時に分かったといったエピソードも、推して知るべしという事でしょう。
ではでは