『日本書紀』についての話52、聖徳太子について考えた話(太子信仰)です。
イメージギャップ
ここまで、聖徳太子という人物像が『日本書紀』の中でどのように創られたのかを見て来ました。
冠位十二階、十七条憲法、遣隋使といったものはともかく、仏教に関する話は違和感が大きかったのではないでしょうか。
聖徳太子といえば、仏教を積極的に導入し、国内に広めることに尽力した聖人、というようなイメージが強いのではないかと思います。
かく言う私もこのブログで聖徳太子を取り上げるようになる前は、漠然とそんな風に思っていました。
しかし、『日本書紀』の記述で見る限りは、以前の記事で見たように、仏教に関しては特段並外れてすごいといったことは無いのです。
今回は、このイメージのギャップについて考えてみます。
聖徳太子
その聖徳太子ですが、『日本書紀』にはその名称は出て来ません。
推古天皇の皇太子兼摂政となったとされるのは、用明天皇の子の「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」です。
最近の教科書では「厩戸王」という表記がされているようですが、これも生前にそう呼ばれていたという論証はないようです。
その推古天皇の皇太子兼摂政を聖徳太子と呼んだ初出は『懐風藻』とされているようですが、その編纂は751年で、聖徳太子の死後129年です。
聖徳太子という名は、死後に付けられた名称という可能性が高いのです。
また、751年というのは『日本書紀』完成の31年後です。
『日本書紀』の内容を読んで、その超人的な能力、業績に驚き、聖徳太子という尊称を奉った人がいたのではないでしょうか。
そして太子信仰へ
そして、聖徳太子という名前と超人的な人物像が知られていきます。
それに乗ったというと語弊があるかもしれませんが、うまく活用したのが仏教側だったのでしょう。
太子ゆかりの寺として有名な、四天王寺、法隆寺に伝承している様々な太子に関する史料にも、『日本書紀』を遡るものは見つかっていないようです。
このことからも、全ては聖徳太子という名が創り出されたことが始まりなのが判ります。
聖徳太子の聖人化は、大和政権としても問題ないどころか望むところだったと思われ、否定するようなこともしていません。
そして、太子信仰とも呼ばれるものに発展していく中で、数多くの伝説が形成され、それが現代の我々の聖徳太子像となっているのです。
これも、ある意味思う壺といえるかもしれません。
ではでは