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邪馬台国から大和へ 14 -邪馬台国への旅程5 対馬国への旅程と短里ー

狗邪韓国から対馬国への旅程と短里に土江の話です。

 

 

対馬に渡る

 前回までで、帯方郡から邪馬台国までの旅程のうち、最初に記述のある狗邪韓国が、現在の巨済島にあったと結論されました。

今回は、次の目的地対馬国までの旅程を考えます。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

「海を渡る、1000余里、対馬国に至る」という事ですが、その国名と「海を渡る」から、巨済島から対馬に渡るという事になるでしょうか。

Googleマップに旅程を入れてみました。

赤いラインが今回の旅程という事になります。

1000余里

 場所については問題ないと考えられるので、その距離1000余里について考えて見たいと思います。

 大前提として、魏志倭人伝中の里数に関しては、概ね正しいと考えます。
GPSなど無かったわけですから、現代の基準から考えれば正確な距離では無かったかもしれませんが、それなりのものはあっただろうと思うのです。

例えば、朝鮮半島から九州へ渡るまでの航海は、全て「海を渡る1000余里」と記されています。
これに関して、よく、海の上で測れるわけがないので、キリ良く1000余里としたというような考え方が有ります。

しかし、航海ですから当然船を使ったわけですが、その時に使者の一行だけで行った訳ではなく、当然それを生業としており、そのあたりの海域を行き来している船乗りに頼ったと考えられます。

その船乗りたちが、距離も分からずに航海するはずも無く、大まかな距離は把握していたはずです。
狗邪韓国から対馬国対馬国から一大国、一大国から末廬国は全て同じぐらいの距離で、1000里ぐらいだ、と言った感じで。

それを聞き取って報告書を書いたと考えるのが普通ですから、距離に関しては大きな間違いは無かったのではないかと思うのです。

巨済島と対馬の距離から

 巨済島と対馬の距離を見てみると、測る場所によって異なるのですが、70数キロといったものになります。

これが1000余里という事なので、1里は70数メートルという事になります。

上の地図に青いラインで示した、帯方郡から狗邪韓国への行程が約500キロ強であり、1里70数メートルであれば7000余里という記述で矛盾しないことになります。

また、韓の国々について書かれた『韓伝』では、その大きさが4000里四方と書かれています。

これも、1里70数メートルをあてはめれば、約300キロ四方ということになり、韓が朝鮮半島の南半分程度であったことを考えると、矛盾の無い数値となります。

一方で、魏の時代の1里は約434mと考えられており、『魏志』の他の部分ではその値が使われているようです。

しかし、『韓伝』、『魏志倭人伝』では、1里70数メートルが使われているのは明らかと考えられるので、以降この数値、いわゆる「短里」、を使う事としたいと思います。


 やっと対馬国に付きました。


ではでは