邪馬台国東遷に従わなかった側についての話4、遣隋使についてです。
やはり大和政権ではなかった
前回の記事では、倭の五王について考えました。
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九州に残った勢力が、広開土王碑に倭として描かれているように、朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのかそれ以上の武力による解決を諦め、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に方針転換をします。
その結果として行われたのが、中国の歴史書『宋書』にある、倭の五王による朝貢なのです。
「讃・珍・済・興・武」の倭の五王は、大和政権の歴代天皇ではなく、九州の勢力にそういった名前の王がいたというだけの話になります。
その次に倭が中国に使者を送るのは、よく知られた遣隋使になります。
今回は、その遣隋使がどこから派遣されたのか考えます。
『隋書』の記述
遣隋使に関係する記述は、「隋」の正史『隋書』にあるのですが、これが結構問題を孕んだ内容となっているのです。
遣隋使が、一回目の600年に続いて、607年にやってきます。
この時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。
これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。
その報告に、旅程が含まれているのですが。
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」
細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。
竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。
その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、亡命して来た人や商人などによって中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。
畿内というには無理が
その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。
『日本書紀』にあるように畿内の大和政権まで行ったとすると、瀬戸内海沿いの十か国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。
それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。
九州での旅程より、この十余国の旅程の方がはるかに長いにも関わらずです。
それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。
九州から出ていない
ここは素直に、秦王国から東の海岸までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。
そして竹斯国から東の海岸までの秦王国と十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。
その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。
つまり、使者の裴世清一行は九州から出ていないのです。
都は九州にあったと考えざるを得ません。
つまり遣隋使を送ったのも大和王朝ではなく、九州王朝だったということになります。
『日本書紀』の記述はでっち上げということになるのですが。
ではでは