『日本書紀』創られた日本 5 編纂についての話 5です。
文武天皇の正統性
前回の記事は、藤原不比等が『日本書紀』の編纂を命じたとした時に、その背景について考えた話でした。
不比等の作り上げた権力構造の始まりとも言えるのが、持統天皇から文武天皇への譲位でした。
不比等には、自らの権力の正統性を示すために、文武天皇の正統性を示す必要があったと考えました。
『日本書紀』の編纂
そして、元正天皇の720年に、『日本書紀』が舎人親王より撰上されます。
不比等が亡くなったのが同じ720年で、享年63歳でした。
『日本書紀』は、彼の晩年に作られたという事になります。
勿論、いつ死ぬのかは分からない訳ですが、当時の平均から考えればいつ死んでもおかしくないという意味での晩年です。
晩年になって不比等が考えていたのは、前回の記事で見たような無理に無理を重ねて作り上げてきたと言っても良い権力構造を、自分の死後の藤原家が維持していけるようにする事だったでしょう。
そのための方策の一つとして作らせたのが、『日本書紀』だったのではないでしょうか。
彼の権力構造の全ての始まりである、文武天皇の即位の正統性を示すために、その直前の持統天皇までの歴史を纏めさせたのだと思います。
『日本書紀』最後の一文
全30巻『日本書紀』の最終巻持統天皇の最後の記述は、
「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」
となっています。
ここで注目すべきは、「禪」という文字です。
この文字は、「禅」の旧字体で、訓読みは「ゆずる」となります。
しかし「禅」なわけですから、多分に「禅譲」を意識していたと考えるべきでしょう。
ちなみに、持統天皇以前に生前に譲位を行った天皇は、35代の皇極天皇しかいません。
皇極天皇の譲位に関する『日本書紀』の記述は、皇極天皇の巻の最後に、
「庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」
とあり、「譲」が使われています。
わざわざ違う文字を使っているいるわけですから、文武天皇は天皇位を単なる「譲」ではなく、「禅譲」されてしかるべき人物だと言っているのです。
不比等は、この「禪」の一文字が欲しくて、『日本書紀』を編纂させたのだと思います。
その上で、天皇に撰上することにより、大和政権としての公式な見解としたということでは無いでしょうか。
『日本書紀』が撰上されたのは720年5月であり、不比等が亡くなったのは720年8月です。図らずも、不比等の最後の置き土産となってしまったというところでしょうか。
ではでは