『日本書紀』についての話61、聖徳太子について考えた話(皇太子兼摂政)です。
皇太子兼摂政
ここまで聖徳太子は、中国側の正史に記録されている遣隋使を派遣した大和政権側の人物として創り出されたのだという仮説のもと、様々な点について見て来ました。
今回は、聖徳太子の肩書について考えてみたいと思います。
『日本書紀』では、後に聖徳太子と呼ばれることになる厩戸王は、推古天皇の「皇太子兼摂政」だったと書かれています。
ここまでの経緯からすると、この肩書についても怪しい感じがするのですが、果たしてどうでしょう。
皇太子
前回の話では、聖徳太子の子山背大兄王について考えてみました。
『日本書紀』では山背大兄王は、父聖徳太子が皇太子でありながら、蘇我一族により皇位を継げなかっただけでなく自殺に追い込まれた悲劇の人とされています。
しかし区分論から考えて、蘇我一族による妨害は聖徳太子像を創り出すときに書き換えられた話であり、実際には山背大兄王の人望の無さが招いた結果ではないかという話でした。
同様に区分論からは、山背大兄王が自殺に追い込まれたのは事実と考えられました。
人望の無い山背大兄王が、皇太子の子であることを理由に即位を画策したために、最終的に自殺に追い込まれたのではないかというわけです。
つまり、父聖徳太子が推古天皇の皇太子であったというのは、事実である可能性が高いと思われるのです。
皇太子の事という立場が重いものであるからこそ、自殺にまで追い込まれたのです。
摂政
最初に書いたように、聖徳太子は中国側に記録された遣隋使を送った大和政権側の人物として創り出されたと考えています。
その中国側の記録の中では、遣隋使を送ったのは倭の男王だと書いてあるのです。
『日本書紀』はそれに対応するのは、大和政権では聖徳太子だと暗に言っているのですが、その肩書が皇太子だけだとすると男王とはならないのではないでしょうか。
皇太子には遣隋使を送るような実権ないとかんがえるのが普通でしょう。
そのために考え出されたのが「摂政」なのではないでしょうか。
大和政権には、皇太子でかつ摂政という実権をもった人物がいますよと、言っているのです。
ただし、あくまでもその人物が遣隋使を送ったとは、直接書くことはしないのです。
神功皇后
以上の話にはよく似た人物がいることに気が付きます。
神功皇后です。
本ブログでは神功皇后は、邪馬台国の卑弥呼から広開土王碑文にある倭による朝鮮半島侵攻までに対応する大和政権側の人物として創り出されたと考えています。
これは、同じパターンではないでしょうか。
女王に対する人物なのに、皇后であって天皇でないのは、最初の女性天皇が推古天皇であることは周知の事実であったことから、皇后としたのだと考えています。
皇后は通常実権を持つとは思われないので、摂政という形にしたのでしょう。
神功皇后と聖徳太子は、同じフォーマットで創りだされたのです。
ではでは