『日本書紀』についての話60、聖徳太子について考えた話(山背大兄王)です。
区分論
前回は、区分論と聖徳太子の関係を考えました。
『日本書紀』に対する、その使われている漢文の違いによる分類を基に考えると、巻21の途中から~巻23は天武天皇の681年の命により編纂されたものが、最終的な書記の完成までに書き換えられたと考えられるという話でした。
その巻21の途中から~巻23は、全て聖徳太子関連の話を含む部分であり、それをもって聖徳太子関連の話は創られた話という仮説の傍証ではないかと考えました。
巻24にも山背大兄王が
確かに、巻21の途中からと巻22には聖徳太子の話がありますし、巻23にはその子山背大兄王の話がありますから、聖徳太子関連で間違いはないのですが、実は巻24にも関連の話が有ります。
それは、山背大兄王が蘇我入鹿により自殺に追い込まれるという話です。
前回の話で見たように、この巻24は書き換えはされていません。
つまり、超人聖徳太子の話を創り出す上では、山背大兄王の自殺という話は書き換える必要が無かったということになります。
逆に言うと、巻23の山背大兄王の話は、書き換える必要があったという事になります。
問題は皇位継承
具体的には、推古天皇が後継を指名しなかったために、敏達天皇の孫の田村皇子との間で後継問題が起きます。
蘇我蝦夷は、群臣に諮りますが意見が分かれます。
その上で、蝦夷が田村皇子を推し、舒明天皇として即位することになります。
母が蘇我氏出身で、蘇我の血を引くにも関わらず蘇我蝦夷に見捨てられる形となるのです。
そして、蘇我蝦夷の子蘇我入鹿によって自殺に追い込まれてしまいます。
何を書き換えたのか
『日本書紀』での山背大兄王の描かれ方は、超人聖徳太子の子にも関わらず、蘇我一族により皇位を継げないだけでなく、自殺に追い込まれた悲劇の人物という感じでしょうか。
ただしここまで見てきたように、これは巻23で書き換えが行われた結果なのです。
何を書き換えたのでしょう。
本ブログとしては、山背大兄王が蘇我一族により悲劇の人とされたという点ではないかと考えます。
ひょっとしたら、推古天皇は正式に後継指名はしていないまでも、田村皇子を推していたのではないでしょうか。
そして群臣もそれに異論を唱える者は多くは無かったのではないか。
勿論、そうであるならば蘇我蝦夷も策を弄する必要は無かったでしょう。
書き換える前の話は、すんなり田村皇子が即位したというものだったのではないでしょうか。
そんなことになった理由は、山背大兄王が人望が無かったといったことではないでしょうか。
なので、山背大兄王が自殺に追い込まれても、さほどの混乱は記録されていないのではないでしょうか。
超人聖徳太子の息子が、人望が無くて皇位を継げなかったというのは困るわけです。
そのために書き換えが行われ、悲劇の人物が創り出されたのです。
そして悲劇の人という人物像には、自殺という結末は書き換える
必要が無かったのでしょう。
推古天皇にも嫌われていたのかも。
ではでは