『日本書紀』についての話46、聖徳太子について考えた話(解答編2)です。
聖徳太子の実存性
前回は、聖徳太子の実存性についての話でした。
神功皇后の実績とエピソードの在り方との類似性から、実存の用明天皇の皇子「厩戸豊聡耳皇子命」を基に、超人的な実績とエピソードを加えて創り出されたと考えました。
もしそうであるならば、次なる問題は、なぜ用明天皇の皇子が聖徳太子とされたかという事になります。
疑問は前々回の記事でも書きましたが、天皇家の系図を見ると、聖徳太子の血統は絶え、『日本書紀』を編纂したのは父用明天皇の兄弟の敏達天皇の血統なのです。

引用元:舒明天皇 - Wikipedia
この流れで、用明天皇の皇子をを超人的な人物だと祭り上げる必要は無いように思えます。
むしろ、敏達天皇の皇子の誰かがそうだったとした方が、いいように思えます。
今回は、そのあたりを考えて見ます。
『日本書紀』編集方針
『日本書紀』の編集方針とも言えるものに、中国を始めとする大陸に残る倭に関する情報に対する対応が有ると考えています。
その方針は、決して認めることはせず、かといって完全に否定することもせず、想起させる事績を記述することで大和政権が行ったようにミスリードするというものです。
その代表ともいえる神功皇后は、邪馬台国の卑弥呼を想起させると共に、三韓征伐により好太王碑文に記録された倭の侵攻までも行ったスーパーウーマンとして書かれています。
しかしその内容は、決して『魏志倭人伝』や広開土王碑文の内容と一致することは無く、勿論、魏に朝貢することもありません。
広開土王碑文に続いて中国の記録に出てくる「倭の五王」に対しては、応神天皇から武烈天皇までの事績の中に「宋国」との交流を記述することで想起させる形になっています。
勿論、「宋国」に朝貢することは有りません。
ちなみに本ブログでは、こういった方針を取るのは、ここまで出て来た倭に関する情報が全て邪馬台国及びその九州に残った勢力(九州王朝)によるもので、神武以来の一貫した統治を標榜する大和政権としては認めるわけにいかなかったからだと考えています。
遣隋使
「倭の五王」の次に中国の記録に現れる倭の情報は、隋の時代のものになります。
いわゆる、「遣隋使」です。
「遣隋使」については、以前の記事で大和政権が行ったものではなく、九州王朝が送ったものだとしました。
これは明らかに前項の編集方針に照らせば、そのまま記載することは出来ない内容です。
そして、隋からの使者は、帰国してから倭王は男王だったと報告しています。
しかし、その時の大和政権のトップは推古女帝でした。
そのために創り出されたが聖徳太子なのです。
中国側の記録では男王となっているようですが、我が国にはこんな超人的な皇太子兼摂政が居ましたよ、というわけです。
しかも、使者裴世清と聖徳太子が会ったとは、決して出て来ません。
想起はさせるけども、あくまでも断定はしない絶妙の創りこみではないでしょうか。
現在でも、男王と聖徳太子の関係をめぐって様々な説がありますが、『日本書紀』の編者の思う壺にはまっていると言えるのかものしれません。
九州王朝が遣隋使を送った時に、大和政権では女帝推古天皇であったために、中国の使者が報告した男王にミスリードするために、聖徳太子が創り出されたのです。
次は、聖徳太子の業績から、その創りこみ具合を考えます。
ではでは