中国史書に書かれている「倭」について考えた話3です。
今回は『新唐書』
2では『旧唐書』に書かれた「倭」について考えて見ました。
今回は、「唐」のもう一つの正史である『新唐書』での「倭」の扱われ方を見てみたいと思います。
引き続き、2と同じ中国の歴史年表(部分)を見ながら進めます。
『新唐書』での「倭」
『旧唐書』では、「倭国」と「日本国」の二つ別々の項目が建てられていたのですが、『新唐書』では「日本国」だけになりました。
「日本は、古(いにしえ)の倭奴なり」と最初に書かれており、「倭」が「日本」になったと認識していたという事になります。
その「古の倭奴」から「日本」へと至る歴史も書いてあるのですが、それが興味深いのです。
天御中主から彥瀲までの32世に渡って筑紫城に居し、彥瀲の子の神武が天皇を号として立ち、大和州を治めたと始まり、その後に皇極天皇までの天皇名が列挙されます。
皇極以降の各天皇については、遣唐使によってもたらされた情報に基づいていると考えられます。
では、それ以前の特に筑紫城云々はどう考えれば良いでしょう。
それに、神武東征はやはり有ったのでしょうか。
『新唐書』は「宋」で作られた
筑紫城は、九州の何処かと考えて間違いないでしょうから、天御中主から皇極天皇までは、『日本書紀』の神代と神武東征及びその後の各天皇の話に沿っているように見えます。
「日本は、古(いにしえ)の倭奴なり」と最初に書いている割には、邪馬台国を含めた中国との交流は一切触れずに、ほぼ『日本書紀』の記述に沿った内容になっている訳です。
この辺りは、2でも触れたように、五代十国時代に編纂された『旧唐書』が評判があまり良くなかったこともあって、「宋」の時代になって改めて『新唐書』が作られたという事と関係が有るようです。
「宋」の正史である『宋史』には奝然という日本僧が宋の太宗に献上した『王年代紀』というものが収録されており、その内容から『新唐書』も『王年代紀』を参照したと考えられている様です。
「宋」の時代には「日本国」しかないことは明らかですし、「唐」以前の記録を見ても「倭国」と「日本国」が並立したというような記録は無かったはずですので、『旧唐書』の記述は疑われていたのだと考えられます。
そこに、「宋」の時代になって『王年代紀』というものがもたらされたという事になります。
『王年代紀』で辻褄が合う
『王年代紀』の内容を見てみると、筑紫城というところに居たものが、大和州に移ったと書いてあったと思われます。
筑紫城に居たのが「古の倭」であり、大和州に移った後で「日本国」と名乗ることにしたと考え、「唐」がその事を知らずに「倭国」と「日本国」が並立していたように勘違いしたのだと考えれば辻褄は合いそうです。
「宋」時代の『新唐書』の編纂者がそう考えて、『王年代紀』を参考にして書いたのが皇極天皇までの部分だったのだと思われます。
『日本書記』に沿っていると行っても、筑紫城に32世が居た云々というのは、かなり話が違いますが、これは奝然が、『日本書記』ベースの『王年代紀』を中国皇帝に献上するのに、中国大陸を作りもしない天地開闢以降の話をそのまま載せるわけにもいかないので、換骨奪胎したと考えるのが自然でしょうか。
ひょっとしたら、一部には筑紫城に32世云々という話が伝承していたという事なのかもしれません。
いずれにしても、やはり辺境の野蛮人の事は積極的に調べる気は無かったようです。
ではでは