火炎型土器について考えた話です
今回は火焔型土器
以前の記事で、縄文時代について書きました。
その時には、主に土偶とは何だったのかという事から、縄文時代について考えました。
縄文時代を代表するもう一方の雄と言っても良い「火焔型土器」については、その解釈が上手く纏まらず、上記の記事でも申し訳程度に触れるのみでした。
ここにきて、これはと思う説を思いついたので、今回は火焔型土器についてです。
火焔型土器
土偶と並んで非常に有名な火焔型土器ですが、改めてどんなものか確認します。
火焔型土器は、今から約5000年程前の縄文時代中期の主に信濃川流域の遺跡から発見されました。
その後、500年程の間作られた事が分かっているようです。
その特徴は、名称にも有るように炎の形を写し取ったとも思える、他に類を見ない独特得の形状に有ります。
天才芸術家の作か
火焔型土器の形状は、上の画像を見ても分かるように、炎と言えば言えないことも無いのですが、それだけでは納得できないものが有るのも明らかでしょう。
だからといって、その形が何なのかと言われても、いわく言い難いというのが正直なところです。
芸術的なセンスのない私としては、なんだか分からないので逆に芸術的なものでないかと考えてきました。
だから、私には理解できないのだと。
約5000年前に天才的な芸術家肌の人物が居て、その手によって生み出されたのではないかと思っていました。
それがその後500年に渡って信濃川流域で作り続けられたのではなかったかと。
その為、現代の岡本太郎の芸術心にも響いたという訳です。
煮炊きにも使っていた
しかし、この考え方にも疑問が無かったわけでは無いのです。
火焔式土器は、研究によると、その内側の付着物などから煮炊きに使われたと考えられています。
単なる芸術作品ではなく、日用品だったのです。
その割には、一見して分かるように、とても煮炊きに便利とは言えない形です。
という事は、単に造形的に素晴らしいからと言うだけではなく、不便を押してでも煮炊きに使う理由がなければなりません。
それはなんでしょう。
土偶から考える
ところで、上にも挙げた以前の記事で土偶を、何らかの祭祀を執り行っていた人物を形作る事で、その力を常に身近に置いておこうとしたものでは無いかと考えました。
この見方を火焔型土器にも適応するとどうなるでしょう。
執り行う人物ではなく、使用される器状の物に力が宿るといった形の祭祀が有ったと考えたらどうでしょう。
その力を常に身近に置こうとして土器で形作ったのが、火焔型土器という訳です。
土器のより先に祭祀が有ったとすれば、その器は周りの自然から得られる材料で作られた可能性は高いでしょう。
植物性の材料も使われたでしょう。
そう考えると、火焔型土器の形状も有る程度頷けるものだと思うのです。
ひも状の部分は、ツタのようなもので筒状に形作ったものとも考えられそうです。
炎状の形態は、植物の枝葉などとも考えられそうです。
更に、祭祀において、その器を使って加熱するような行為が重要な意味をもっていたとすれば、それを形づくった火焔型土器で煮炊きするというのも頷ける事になります。
そういった祭祀を基にしたものが、信濃川流域で500年に渡って継承されたという事では無いでしょうか。
普通、あの形の土器で煮炊きしたいとは思いませんよね。
ではでは