末廬国と松浦について考えた話です。
末廬国と松浦が気になる
本ブログでは、邪馬台国の位置として宇佐説を採っているわけですが、その前提のひとつとして、壱岐(一大国)からの行程を、通常考えられている南の松浦市付近ではなく、東と考えて現在の宗像市あたりに上陸したと考えています。
その根拠に関しては、以前の記事で個人的には一応納得のいく説明が出来たと思っています。
そうなると、末廬国と松浦の関係はどう考えたらいいのでしょう。
勿論、末廬国と松浦はたまたま似ているだけだと無視してもいいのですが、喉に魚の小骨が刺さったような感じで、スッキリしません。
また、見方を変えると、末廬国が、松浦ではなく現在の宗像市付近だとすると、そのあたりに末廬国につながるような地名がなぜ無いのかという事になります。
という訳で、今回は、末廬国と松浦のこれらの問題に対して、宇佐説に都合のいい屁理屈を考えてみた話になります。
気になる背景
確かに、末廬国と松浦に関しては、単に似ているだけでは無いと思わせる背景も有るのです。
先ず、明らかに朝鮮半島な狗邪韓国から海を渡った先が、対馬国で、明らかに対馬です。
さらに海を渡って着くのが一大国という事で、一見アレッと思うのですが、これは一支国の書き間違いだと考えられています(そうでないという意見もあります)。
一支の中国語での発音は、Google翻訳で聞くと、「イーチィー」のように聞こえます。
この事からも、一支国(一大国)は現在の壱岐と考えていいように思えます。
その流れで来ると、次の末廬国は、倭人の松浦の発音を聞いて字を当てたと考えるのが自然のように見えます。
そうなると、宗像市辺りに上陸したと考える宇佐説からすると、いささか困ったことになります。
背景には東遷が
このブログでは、宇佐に有った邪馬台国が、東遷して畿内に移ることで、大和政権となったと考えています。
その東遷に関しては、大陸における五胡十六国の動乱の影響が、海を越えて九州にも及んでくるのを恐れて行ったとしています。
そのため、一族郎党全てが東遷したわけでなく、移動中の後備え兼移動後の防衛の最前線として、一部が残ったと考えました。
実はこれが、末廬国と松浦の問題を解く鍵なのではないかと思うのです。
沿岸の防衛
防衛とういう観点で、松浦市の辺りについて考えてみるとどうでしょうか。
大陸から侵攻して来るとすると、対馬、壱岐経由で行われるのが大きな可能性の一つになります。
その時に壱岐から最も近い位置にある松浦市付近は、最重要防衛拠点の一つと考えられます。
ここで九州に残った人たちについて考えます。
守ると言っても、邪馬台国の主要な部分は東遷中であり、全体の規模としては明らかに減っているので、当然残った人員を再配置しなければならない事になります。
そのために、現在の宗像市辺りにあった末廬国の一族が、松浦市辺りに再配置されたのでは無いでしょうか。
結果、宗像市辺りには末廬国由来の地名が無く、松浦市周辺に名称が残ったのです。
以上、無理矢理辻褄を合わせた感が有る事を否定はしませんが、個人的には結構気に入っています。
ではでは