古墳時代に日本にやって来た人たちについて考えた話です
古墳時代に大陸から集団が
日本人の由来に関しては、最初に定住していた縄文人と、その後に稲作と共にやって来た弥生人の混血によって形成されたというのが、従来の説となっています。
ところが少し前に、1500年前の古墳時代の遺跡から見つかった人骨のDNAを分析したところ、縄文人と弥生人のもの以外に、東アジア人に特有の特徴が発見されたというニュースが有りました。
ということは、縄文人と弥生人以外に、古墳時代に東アジア人の集団がやって来て混血した事が考えられるという話になりそうです。
そこで、この古墳時代にやって来た東アジア人の集団について、邪馬台国東遷説から考えてみようというのが、今回の趣旨になります。
日本は蛮族の地
こういった時には、普通に考えると、全国規模の政権が出来た古墳時代に大陸との交流が増加して、沢山の人がやって来たんだぐらいの説明になるかと思います。
しかし、このブログでも何回か出て来た話ですが、当時の中国と日本の文化には、大きな差が存在しています。
何しろ、三世紀の卑弥呼の時代から見て約500年前が、秦の始皇帝のキングダムの時代ですから。
という事で、当時の多くの中国の人から見た日本は、東夷という名がふさわしい蛮族の地だったと思われます。
そのため、商売などのために一時的にやって来る人はいたでしょうが、定住のためにやって来るというものは少なかったと思われます。
その地にDNAレベルで変化を起こすほどの規模の集団がやって来るには、それなりの理由があったはずです。
動乱を逃れた?
約1500年前という事は、500年(6世紀)ごろになりますが、その時に大陸から来ても、直ぐにDNAレベルの変化は起きないので、実際にはそれ以前の4,5世紀にやって来ていることになります。
さて、4,5世紀といえば、中国では五胡十六国の大動乱期でした。
その混乱を避けるためにやって来たと考える事も出来そうです。
ですが、五胡十六国の十六国は漢族の国であり、わざわざ蛮族の地まで逃げて行くというのは、命の掛かった状況でもない限り、動機としては低かったように思われます。
邪馬台国東遷説との関係
そこで動機の理由になりそうなのが、邪馬台国東遷説という訳です。
同説では、五胡十六国の動乱を避けて、従前から交流の有った魏の東北部から命からがら逃げて来た亡命者の指導の基で、大陸からの侵攻を避けるために、九州にあった邪馬台国が畿内に国を移し大和政権となったと考えます。
この事は大陸にも情報としてもたらされと考えられます。
その結果、中国の人々から見ると、日本が単なる野蛮の地ではなく、大陸からの亡命者が中枢部にいる国が有る、行ってみる価値のある地になったということでは無いでしょうか。
その結果、少なくない集団が日本にやって来ることになり、DNAにもその影響が組み込まれることになったのです。
以上、牽強付会の見本のようなお話でした。
ではでは