秀吉と天下統一について考えた話です
家を守りたかった
前回まで数回に渡って、今年の大河ドラマ「どうする家康」から始めて、戦国大名と天下統一について考えてきました。
戦国大名は、一般的に考えられているように、天下統一を目指して戦を行っていた訳ではないというのが基本的な考え方になります。
天下を目指すのではなく、自らの家の存続こそがその行動原理だったのです。
そして多くの大名が京を目指したのも、長きに渡って続いてきた天皇中心のシステムの中で権力を握る事で、自らの存続を図る事が目的だったという訳です。
秀吉の場合
戦国大名については、多くが上のような行動原理で有ったと考えられる訳ですが、一人それに当てはまらない人物がいます。
それは、天下人豊臣秀吉です。
理由は極めてシンプルです。
彼には、守らなければいけない家というものが元々なかったのです。
良く知られているように、秀吉は、農民の身分から天下人まで上り詰めた人物です。
多くの戦国大名とは違って、農民の家族はいても、守っていかなければならない家というものはなかったと言っても良いでしょう。
信長の命に従って行動する立場だった訳です。
突然信長が死んで
それが、本能寺の変により突然信長とその長男が死んでしまうという事態になります。
いきなり命令を受ける立場から、自分で行動しなければいけない立場になってしまったわけです。
その時に、秀吉が信長の意志を引き継いだのではないか、という内容の記事を以前に書きました。
とはいっても、この記事の中でも書きましたが、信長も天下統一を考えていたわけではなく、秀吉が思い違いをしていたのではないかという話でした。
天下を武力で統一することが信長の意志だと思っていたのです。
朝鮮半島に攻め入った事を見ると、天下には大陸も含まれていたと思い込んでいたのだと考えています。
守るべきものが出来た
その天下統一を果たした秀吉にも守るべきものが出来ました。
それは、関白家たる豊臣の家、ではなく晩年の子である秀頼です。
死期を悟った秀吉が、家康などの主だったものに対して遺言を伝え、近臣が覚書として記録したという、「太閤様御覺書」というものが有ります。
この覚え書き、11か条からなるのですが、そのうちの9か条が秀頼に関する事なのです。
死の間際の秀吉にとっては、天下や豊臣の家等よりも、一人息子の秀頼の事が重要だったのです。
最後まで他の大名とは一線を画していたと言えるのかもしれません。
それにしても勘違だったとしても、天下を統一し、朝鮮まで攻め込んでしまうというのは尋常で無い事には違いないですよね。
ではでは