秀吉と利休について考えた話です。
戦国大名と茶の湯
前回の記事では、戦国大名が「茶の湯」を好んだ理由にについて考えました。
よく言われるのは、精神的な癒しの為というものですが、それも有ったかもしれませんが、「唐物」「名物」等の茶道具によってマウントを取ることが出来る点が、好まれた理由だと考えました。
この事が、朝廷を中心とする勢力に比べると、成り上がりものに過ぎない戦国大名にとっては都合の良いものだったという訳です。
頂点を極めた秀吉
前回の記事でも触れましたが、こういった形の「茶の湯」の頂点を極めたのが豊臣秀吉だったと言えるでしょう。
参加者一千人以上という空前の規模だった、北野天満宮で開いた大茶会。
宮中で後にも先にもただ一度行われた、秀吉が正親町天皇にお茶を差し上げる禁裏茶会。
そして、とどめとも言えるのが、あの有名な「黄金の茶室」です。
全ての茶道具は言うに及ばず、茶室そのものも金ずくめの中で、時の天下人が茶を点てるのですから、誰も抗えるわけが有りません。
正に秀吉の一人勝ちマウント状態です。
対極の利休
それに対して、千利休はどうでしょう。
ご存知のように、千利休については、現代の「茶道」に繋がる「わび茶」の完成者として良く知られています。
勿論、その内容について話せるほどの知識を持ち合わせているわけではありませんが、その特徴の一つは、所謂「唐物」「名物」の否定と、利休道具に代表される質素とも言える価値観にあると言って良いでしょう(もっとも、利休の手になるものが、結局「名物」になってしまう訳ですが)。
これは、明らかに秀吉の対極に位置するものと言えるでしょう。
しかも、秀吉から見て厄介なのは、権力や金銭でどうにかなるものでは無いという点です。
「名物」のような分かり易い評価軸は無く、極論すると、利休の言う事、行う事がそのまま評価基準になるわけです。
これは、秀吉からすると、一方的にマウントを取れないという事で、いささか面白くない状態という事になります。
利休の影響力
それでも、利休が一介の茶人であれば問題は無かったでしょう。
「面白い事を考える奴じゃ。」とでも言って、度量の有るところを見せておけば済む話ですからね。
そうでは無かったのが、利休の悲劇だったのだと思います。
茶人としても、秀吉の「茶頭」としての地位にあり、一介のとは言えない立場であったのは確かです。
しかし、利休にはそれだけでなく、秀吉の側近としての面もあったようです。
しかも、秀吉をして「公儀のことは私に、内々のことは利休に」と言わしめる程だったようです。
利休の切腹
そういった人物が、自分ではマウントを取れない立場になったという事ですから、秀吉は心中穏やかでは無かったはずです。
その結果が、利休の切腹という事だったのではないでしょうか。
よく言われる、「大徳寺楼門の2階に自身の雪駄履きの木像を設置し、その下を秀吉に通らせた」という理由は、本当にそのようなことが有ったとしても言いがかりレベルの話ですからね。
利休をコントロールすることが出来なくなることを恐れた秀吉が、これ幸いと利用したのだと思います。
その表れの一つが、切腹に際して、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命で上杉景勝の軍勢に屋敷を取り囲ませたという言い伝えでしょう。
釣鐘の銘への言いがかりで豊臣家が滅びたのは、平安時代なら「利休の祟り」と恐れられたかもしれません。
ではでは