お釈迦様の教えの特異性について考えた話です。
もう少し考えて見た
前回の記事で、お釈迦様の修行話は、難行苦行をしなくても良いんだという事を示すために作られたと書きました。
お釈迦様の教えの方法論は、乱暴な言い方をすると、坐禅と瞑想といういささかインパクトに欠け、従来修行者が行う難行苦行の対極に位置したものでした。
その事に対する、攻撃や疑問に対する解答だったと考えたわけです。
書いた後で、単に修行法の違いだけではなく、その目指しているものの相違点についてもう少し考えて見た話です。
考える力を持ったが故に
我々は、考える能力を獲得することにより、人間になったと言って良いでしょう。
それにより、道具や言葉などを作り出し、他の生物に対して優位に立ち、自然に働きかけて来たわけです。
その代償というか副作用というか、考えるが故の悩みというようなものも抱え込むことになります。
様々の問題に対して、解決策や回避策などを考えるわけですが、どうしても対処できないものが残ります。
それが、過去と未来に関するものです。
過去も未来も、どのように考えを巡らしても、我々人間の力では如何ともし難いものです。
その結果、過去を悔やみ、未来に慄くという事になります。
死に対する恐怖は、その最たるものでしょう。
そして、宗教が生まれた
これら如何ともし難いものたちに相対するために、得意の考える力を使って作りだしたのが、宗教なのでしょう。
精霊、神といった超越的なものを作り出し、それらがすべてに関わっていると考えるのです。
過去に起こったことも、これから起こる事も、すべてが超越的なものの影響によると考えます。
そう考える事で、自分の力ではどうしようもない事と折り合っていくのです。
更に、超越的なものの力で、現実的な利益を得る事も期待する場合も有ります。
超越的なものによる宗教
アニミズムは、これら超越的なものを、周囲の自然物の中に考えたものという事が出来るでしょう。
超越的なものが、自然物とは別個に存在すると考えたのが、汎神論なのでしょう。
日本の八百万の神は、ご神体が自然物の場合も有れば、人間が神になる事もあるので、アニミズムと汎神論が混合したようなものと言えるでしょうか。
超越的な唯一の存在を考えるのが、一神教という事になります。
普通はこれらの超越的なものを信じるのですが、中には自らも超越的な存在になったり、一体化する、またはその力を自らのものにしたいと考える者も出て来ます。
それが、苦行、荒行を行う修行者という事になります。
お釈迦様の教え
しかし、お釈迦様の教えには、超越的な存在という考え方は出て来ません。
その代わりに、彼が辿り着いたのは、考える事により悩みを抱え込む事になったのだから、その根本の部分を取り除けば良いという、コロンブスの卵的発想だったのです。
考えるからあれこれ悩むことになるのだから、考えなければいいという事です。
しかし、何も考えなければ、人間ではなくなってしまいます。
この辺りをどうするのかを説明したのが、以前の記事でも取り上げたお釈迦様の教え「四諦」と「八正道」ということになりそうです。
この革新的な考え方を広めるために、布教の一助として考えられたのが、前回の記事で取り上げたように、お釈迦様の修行の話だったのでしょう。
結局、大乗仏教が作られた
しかしながら、結局、仏教も超越的なものの存在する方向に舵を取る事になります。
それが、わが国にももたらされた「大乗仏教」です。
曼荼羅に描かれるような数多くの仏が存在し、それを信じるという話になっているわけです。
超越的なものを信じる方が、楽ですものね。
今回の話は、超越的なものの存在を否定している訳ではありません。
私が、不可知論者だというだけですので、悪しからず。
ではでは