横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

日本人の宗教観と豊かな自然

日本人の宗教観と日本列島の豊かな自然の関係について考えた話です

 

 

日本人は無宗教

 外国人から見た日本人の特徴として、無宗教に見えるという点が取り上げられることがあります。

洗礼を受けたわけでもないのに教会で結婚式を挙げ、葬式はお寺で行い、大みそかにはお寺で除夜の鐘を突き、正月になると一転して神社に初詣に行く。

宗教を全く無視しているようで、訳が分からないという訳です。

私自身は、理系人間で、理屈が先に来がちなので、特に信心しているものは有りません。

宗教は何かと質問された時には、「不可知論者」だと答えることにしています。

まあ、神様も、仏様も、いずれも存在するとも言えないし、存在しないとも言えないという立場という事です。

それはともかく、日本人がお寺や神社に、宗旨に関係なく行ったりするのは、無宗教というよりも、生活の中で宗教を意識することが少ないと言った方が良いのでは無いかと思います。

自然の豊かな生産力が原因?

 日本人がなぜそうなのかについては、神仏習合の過去があったからだとか、江戸時代の檀家制度が一因だとか色々その理由について言われます。

その理由についても、前回の記事で日本人を日本人たらしめた理由として挙げた、日本の自然の豊かな生産力だったという事が言えるのでは無いかと思うのです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その記事中でも書きましたが、日本列島においては、自然は敵対して征服していくものでは無く、共生し恵みを与えてくれるものでした。

その結果、全てのものには、八百万とも言われる神々が宿ると考えるようになりました。

信じるか信じないかといったものでは無く、ごく自然な身近なものだったのです。

それは文字通り、自然発生的なもので、共通の教義のようなものは無かったと考えられます。

そういった意味では、宗教だという意識も少なかったと思います。

そこに、仏教、キリスト教のような、教義のしっかりとした宗教が入って来ても、八百万の神と同じように捉えることに拠り、特に問題は生じなかったのだと思います。

争いは有ったが

 とは言っても、仏教伝来時の争いや、キリスト教の弾圧、廃仏毀釈などが有ったじゃないかと言われそうです。

そういった争いは確かにありましたが、よく考えると、これらはいずれも権力側が宗教を利用しようとした結果だと考える事が出来そうです。

仏教伝来時の争いは、蘇我氏が、仏教を利用して旧来勢力に対抗しようしたものと考えられます。

キリスト教の弾圧は、戦国時代から江戸時代へと全国統一政権を作る中で、唯一絶対の神を主とする教義は不都合だったという事や、背後にスペインなどの影がちらついていたことも原因と言えるでしょう。

廃仏毀釈は、明治政府による神道国家神道化による結果だと言えます。

つまりいずれも、権力側の都合の結果とも言えるわけで、社会レベルで特定の宗教を排斥するようなことが有った訳では無いのです。

どこへお参りしようが

 という事で、各宗教側がどう考えるかというのは別にして、日本人にとって、神社仏閣教会の何れに行くことも、特に宗教という意識も、違和感も無いのだと考えられます。

様々な神社にお参りするように、寺院や、教会に行くと捉えれば、誰がどこへお参りしようが、人ぞれぞれで問題は無いわけです。

加えて、現代の日本人が、宗教についての体系的な知識という点で、あまり強くないという事も相まって、外国から見ると、極めて無宗教的に見えるという事なのだと思います。

 

と、書きながら、不可知論者の私としては、存在されているものなら、そのお姿なりをお見せいただけないものかと思っているのです。


ではでは