お釈迦様の修行の話について考えた話です。
お釈迦様の修行
お釈迦様が悟りを開かれるまでの話は、よく知られているところですが、改めて簡単に纏めると、次のようになるかと思います。
王子として何不自由のない暮らしをしていたお釈迦様は、29歳の時に王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにして、出家をします。
いわゆる、四門出遊です。
その後、6年間に及ぶ様々な苦行を行った後に、苦行ではダメな事を悟ります。
そして、菩提樹の下に座して瞑想を行い、悟りを開かれました。
必要なさそうな話
この話の中で、宗教の開祖のものとしては、特になくても良い部分がある様に思うのです。
6年間苦行を行った挙句、それではダメだと悟る部分は必要でしょうか。
6年間苦行を行って、その結果悟りを開いたというのなら、そこまでして獲得した有難い教えだという事になりますよね。
それが、諦めた後で瞑想したら悟ったというのは、どうも有難さに欠けるような気がするのですが。
まあ、余計なお世話と言われれば、返す言葉も無いんですが。
後世に作られた話
これがお釈迦様が悟った後に、自ら話されたというようなものであれば、そこで話は終わってしまうのですが、実際には、そんなことは無く、いつ頃出来た話なのかはよく分かっていないようです。
という事は、後世に仏教を広めるために、開祖たるお釈迦様の素晴らしさ、ひいてはその教えの素晴らしさを示すために作られたはずです。
それなのに、6年間も無駄な事をしたという話が入っているのはどうなんでしょう。
お釈迦様自身が説いたとされる初転法輪に代表される教えでは、悟りを開くために、難行苦行を行ってその上で瞑想を行うなんて事は全くないですしね。
もっとも、最初に苦行をして、結局無駄に終わったというのは、本当に在った話なのかもしれないですけれど、あえて入れる必要もない気がします。
インドに関する番組を見て
というような感想を持っていたのですが、テレビでインドに関する番組を見て、その理由が分かったような気がしました。
番組は、宗教的な祭りに関するものだったのですが、そこに集まってくる様々な修行者たちが紹介されていました。
苦行をしている人も多く、片手を上げたままの人(委縮してしまっています)、後ろ向きにしか歩かない人、高い台の上で生活している人等々多士済々でした。
しかも、それらの修行者たちは、人々から尊敬を集めたりもしているようなのです。
苦行はいらない
お釈迦様の修行の話にも、苦行が出て来るので、全く同じでは無いでしょうが、その当時からあった事は間違いないでしょう。
それに対して、お釈迦様の教えは、そのような行いを否定するものという事になります。
しかも、修行として行うのは、言い方が悪いかもしれませんが、他の修行者の行う苦行に比べていささかインパクトに欠ける座禅と瞑想です。
そんなことで大丈夫なのかといった疑問、攻撃に答えるために作り出されたのが、お釈迦様の悟りへ至る修行の話だったのではないでしょうか。
難行苦行をしなくても(むしろ無駄)、悟りを開くことは出来るという訳です。
お釈迦様は、悟った直後には衆生に教えを説いても理解されないと考えたという話がありますが、こういった背景も有ったのかもしれません。
ではでは