儒教について考えた話です。
もう一つあった
前回の記事は、お釈迦様の教えが、他の多くの宗教と比べて特異的な点があるという話でした。
他の多くの宗教の特徴は、考える事により生じる悩みに対処するために、精霊や神などの超越的な存在を作り出す点にあると考えました。
お釈迦様の教えは、そんなものを作り出さずに、考える事そのものを問題にするという特異的な点を持った宗教だと言う話でした。
特異的なものだという事を確認するために、既存の有名どころの宗教について調べていて、儒教も特異的だという事に気が付きました。
という訳で、儒教の話です。
儒教も宗教
儒教と言えば孔子ですし、孔子と言えば、どうしても寺子屋で子供たちが揃って、「子曰く」と読み上げる場面を思いだしがちです。
それに、儒教の経典である四書五経の丸暗記が、かの有名な科挙を受けるための最低条件とされていたというのも有ります。
なので、儒教には学問というイメージが強く、宗教という感じがしません。
そうは言っても、一応中国三大宗教の一つに挙げられています。
ちなみに残りのふたつは、道教と仏教だそうです。
儒教の教え
儒教の中心的な教えは、
五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。
引用元:儒教 - Wikipedia
という事のようです。
五常については、これに「忠」「孝」「悌」の3つを加えると、一部の世代の人にはお馴染みの、珠に浮き出る8文字になりますが、儒教の教えとしての意味は次のようなものです。
仁:人を思いやること。
義:利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
礼:「仁」を具体的な行動として表したもの。
智:道理をよく知り得ている人。
信:言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
これらの事を守ることにより、五倫関係、すなわち社会的な関係が良好になるという事になります。
五倫に君臣がある様に、為政者にとって都合の良い考え方ともいえ、科挙に取り込まれたのも頷けるけるところです。
超越的なものは出てこない
以上の教えは、超越的なものを考えてそれを信じる事で対処するのではなく、より良く生きていくために必要なことと、それをどう行うのかを決め守ることで対処することにしたとも言えます。
つまり儒教は、超越的なものを持ち出さない宗教という事になります。
そういう意味では、お釈迦様の説いた初期の仏教と同じだと言えるかもしれません。
しかし、その有り方は、正反対です。
儒教の日々の行いを決めそれを信じるのというのは、考える事をベースにしているのに対し、初期仏教は考える事そのものを問題とする訳です。
つまり、儒教と仏教は、考える事によって生じる悩みに対して、超越的なものを持ち出さない点では同じでも、全く逆のアプローチを採っている宗教なのです。
次回は、中国の三大宗教の残りの一つ、道教についての予定です。
ではでは